危険の大小の文脈ではなく、権利と義務の文脈で見られる(危険の大小も無視できないものではあるが)

 車はラジコン飛行機よりも危ない。ラジコン飛行機を飛ばすのを禁じられている河川敷で、ラジコン飛行機を飛ばしていた人は、テレビ番組の中でそう言っていた。

 車とラジコン飛行機は、比べてみれば車のほうがより危ないのはある。車のほうが危険ではあるが、ラジコン飛行機は安全かといえば、そうとは言えそうにない。車には問題があるし、ラジコン飛行機にもまた問題があると見られる。

 車は社会の中に組みこまれている。モータリゼーションになっている。危険性は高いものの、得られる利益もまた高い。車を運転するには免許がいり、運転手には社会的に一定の責任が背負わされている。

 車が社会に益をもたらすのとは別に、害をもたらしてしまっているのは無視できそうにない。その害を重く見ることはできる。理想論としては、車がないほうがよいか、もしくは害のない車がつくられればよい。現実論としては、車は社会に必要であり、そのために許容されている。

 ラジコン飛行機は、社会に広く必要なものとは見なしづらく、特定の人に益になるものだと見られる。社会に広く必要なものだとは見なしづらいので、車ほどには必要不可欠さが低い。車とラジコン飛行機は同列にあつかうことはできず、質のちがうものなので、別なものとして見るのがふさわしい。禁じる決まりがあるのなら、それを守るようにして、そこでは飛ばさないようにしてもらいたい。