すべての権利ということはできないかもしれないが、中にはかなり重要なものも含まれているのだから、それは慎重に聞き入れられないとならない(現実には軽んじられてしまっている)

 権利を声高に叫ぶ。それをよくないことだと文部科学相はしているようだ。権利ばかりを声高に叫ぶのはのぞましいことだとは見なせないということだろう。この見なし方には個人としてはうなずくことができそうにない。

 声高に叫ぶというところは置いておくとして、権利を言うのと言わないのとを対比することができる。この二つを場合分けしてみると、権利を言ってよくなるのと悪くなるのがあげられる。権利を言わないでよくなるのと悪くなるのがあげられる。

 権利を言わないでいてものごとがよくなって行くのかといえば、そうとは言えそうにない。権利を言わないで黙っているのは、あり方に賛成しているものと見なされてしまうのがあるので、それによってものごとがどんどん悪い方に進んで行くことがある。

 権利を言うことによって、必ずものごとがよい方に進んで行くとは言えそうにない。しかし、言わなければよくならないというのがあるから、あり方を改めるために、権利を言うことがいることは少なくない。言ってよくなる見こみはあるだろう。

 ものごとをよくして行くという目的があるとすると、その手段として、権利を(声高に)言うことは有効なものである。いっぽうで、権利を言わないという手段は有効かというと、そうとは言えそうにない。言わないで黙っていれば、あり方に賛成していると見なされてしまい、そのままでよいのだとか、あり方を悪い方に強めることの背中を押してしまいかねない。

 権利を言う人よりも、言わない人のほうが多い。そんな中で、権利を言う人は目立つのはある。多くの人が権利を言おうとしないのがあるとしても、そのあり方がよいとは必ずしも言うことはできない。多くの人がとっているあり方が正しいとは限らないのがある。

 権利を言う人がいてもよいし、言わない人がいてもよい。権利を声高に叫ぶなどして言うことは、義務なわけではない。言わなければならないものではないので、言ってもよいし言わなくてもよいものである。個人の自己決定に任されている。

 権利を声高に叫んでいる人がいるとして、その結果にたいする原因を、その叫んでいる人に当てはめるのがふさわしいとは必ずしも言えるものではない。原因はその叫んでいる人にあるのではなく、その人をとり巻く外の状況にあるという見かたが成り立つ。外の状況が原因になり、その悪い原因がそのままになっているので、権利をうったえることになる。

 声高に叫ぶ人をとり巻く外の状況に原因があるのは、他による義務が果たされていないことによるのがある。権利と義務は対応していることがあるので、他による義務が果たされていないことにより、その人が権利を言うことになるとするとらえ方が成り立つ。親が子どもを養う義務を果たしていないとすると、子どもの権利が損なわれてしまう。子どもの権利が損なわれるのは、親が義務を果たしていないことが原因となっている。権利と義務が連関していることになる。この例では、親に特殊な事情があることは現実にはあるかもしれない。