文科相の言う Justice を、権力者とそのとり巻きに当てはめてもらいたいものだ(現実には不正義になってしまっている)

 現行憲法を信奉する人がいる。その人は、犯人とえん罪の被害者についてこう見なす。百人の真犯人を逃しても、一人のえん罪被害者を生み出してはならないとする。しかし私は、一人のえん罪被害者も出してはならないし、一人の真犯人も逃がしてはならないと考える。それが Justice だ。文部科学相ツイッターのツイートでそう言っていた。

 決めぜりふのように、それが Justice だ、と文科相は言っているが、あくまでもそれは理想論ということだと受けとれる。現実論として、真犯人を逃さないことと、えん罪の被害者が生まれないようにすることとの、どちらをもとれず、どちらかしかとれないことがある。時間や能力などの制約があることによる。どちらかしかとれないことにたいする答えにはなっていない。

 それにたいする答えとして、現行憲法を信奉する人と文科相が言っているあり方がとれる。百人の真犯人を逃すというのはやや言いすぎだが、真犯人を逃さないようにするのと、えん罪の被害者を生まないようにするのとの、どちらをとるのかということになれば、えん罪の被害者を生まないようにすることを第一にとることが正義(Justice)になる。真犯人を逃さないようにすることも正義ではあるだろうが。

 現行憲法を信奉する人と文科相が言っているあり方は、無罪推定の原則によるものであり、これによってえん罪の被害者を生まないようにするのは、現実においてふさわしいものだろう。一般人についてはそうだが、権力者については話がまたちがってくるのがある。

 いまの与党である自由民主党では、権力者の疑惑について、身内に甘いあり方がとられてしまっている。権力者の疑惑について、権力者やそのとり巻きが真犯人(張本人)であるのを見のがしてしまっているとすると、それは文科相の言う Justice に当たるものではなく、逆の不正義になる。上に甘く、下に厳しいというおかしさだ。身内に甘くするのではなく、厳しくするようにして、権力者やそのとり巻きが追及から逃れるのをさせないようにして、権力にたいするチェックを十分にやってもらいたいものである。