巨悪ではないものを巨悪だとしてしまうのはまずい

 性の少数派は生産性がないと言った自由民主党の議員は、巨悪への追求に挑みつづけている。この議員は、さまざまな巨悪にたいして戦いを挑んでいるというのだ。この見かたにたいしてはうなずくことができそうにない。まったく逆であり、巨悪にすり寄ってしまっている。

 せっかく与党に属しているのにも関わらず、与党のど真ん中に巨悪がいることを見のがすのはのぞましいことではない。与党のど真ん中にいる巨悪は、いちばん追求されるべきものだろう。そこに挑まないようでは、巨悪を追求するうえで一番やらなければならないことをやらないでいることになる。

 いまの与党の政権が巨悪だというのは、あくまでも個人による見かたにすぎず、もっとほかのちがった見かたがさまざまにできるものではあるだろう。ほかのちがった見かたができる中で、自民党の議員は、与党のど真ん中にいる権力者たちや、日本という国を、善として見ていることから、その善にそぐわないものを悪としているのにちがいない。

 巨悪というふうに言うのは差し控えたほうがよいかもしれない。この巨悪ということに含まれる難しさは、巨悪は巨善に転じることがあるのがあげられる。巨善は巨悪に転じることもある。巨善は純粋な正義ということだが、正義によってつっ走ることで悪に転落することは少なくない。

 巨悪というふうに言うのは誇張を含むために危ないところがあるので、なるべく用いないようにして差し控えるようにしたい。それを差し控えるさいに、相対的な善というふうにとどめるようにすると危なさを避けやすくなる。自民党の議員は、自分がよしとすることを、絶対的な善とするのではなく、相対的な善としたほうがよいのだと言いたい。そうすることによって、巨善である純粋な正義によってつっ走り、悪に転落してしまうことを少しは防ぎやすくなる。

 巨善は超越的なものだと言えるのがあり、そのいっぽうで、相対的な善であれば世俗的なものにとどまる。国家の善という(まちがった)超越の巨善を持ち出さないようにして、相対的な善によるようにして、さまざまな善の構想が人によって抱かれるのを許す。人によってさまざまな相対的な善があるのをよしとすることができたほうが、現実に根ざしたものになる。現実に根ざすのではなく、超越の巨善を持ち出してしまうと、教条(ドグマ)による前近代的な反動の動きによることになる。