SNS で脅迫を受けているという危機と、雑誌の記事で発言したことで他から批判が投げかけられているという危機の二つがあると見られる

 脅迫を受けている。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)からのものである。それについて警察に届け出を出している。SNS で脅迫をしたとされる容疑者が逮捕されるまでは、何も答えられないことになっている。記者にたいして国会議員はそう言う。

 自由民主党に属するこの議員は、SNS で殺害をほのめかす脅迫を受けているという。そのきっかけとなったのは、雑誌の記事で、性の少数者は生産性がないと(議員が)言ったことにあると見られる。

 SNS で議員に脅迫をしたとされる容疑者が逮捕されるまでは、何も答えられないことになっている。議員はそう言っているが、容疑者が逮捕されないかぎりは何も答えないということだろうか。そうであるとすればおかしいと言わざるをえない。

 SNS で脅迫を受けていることは、あくまでも SNS での話だと見られないではない。SNS を通しての脅迫であるそうだが、つぶやくことでわりと簡単にそういったことができてしまうのがある。SNS を通してのものは、現実のものごとに影響をおよぼすのはあるが、現実の一部分として SNS があると位置づけられる。

 SNS は置いておくとして、脅迫一般として見られるとすると、その脅迫が本当のことがあるし、そうではないことがある。ある人が、脅迫を受けたとして、それによってその人がその脅迫されるきっかけとなったことをやめなかったとしても、必ずしも脅迫されたことが現実に引きおこるとはかぎらない。一〇〇パーセント引きおこるとはかぎらず、圧をかけただけのことがある。

 ある人が、あることを言い、それにたいしておどしを受けたことがあるという。遠まわしの婉曲のおどしである。町を出歩くと身の危険があることをその人にほのめかす。それでもその人はそのおどしを無視して、町を出歩いて、言ったこともひるがえさないで通す。それで何ともなかったという逸話がある。

 そうした逸話があるとしても、一般化することはできないかもしれない。脅迫がじっさいに行動にうつされて、現実に引きおこされることはある。そこへの注意はいるだろう。これは脅迫にまつわる一つの問題である。この問題を何とかするために、議員は、容疑者が逮捕されるまでは答えられないというふうにしている。しかしそうすることで、もう一つの問題が持ち上がる。合計すると二つの問題がおきる。

 自分が SNS で脅迫を受けていることについて、それに対応するのは、あくまでも一つの問題にとりかかっているのにすぎない。それにとりかかることで、もう一つの問題が持ち上がってくる。そのもう一つの問題についてがないがしろになってしまっている。議員は、一つだけではなく、二つの問題をかかえていて、この二つのものを共に何とかすることがいる。二つで一つの問題だというのが成り立つ。

 自由主義の社会であることから、たとえ気に食わないからといって、他者に危害を加えることはあってはならない。SNS でそれをほのめかす脅迫をするのはやめるようにするのがのぞましい。それが一つにはある。それとは別に、雑誌の記事で発言したことがあるので、それについて議員は一方的に言いっぱなしで終わらせるのはまずい。何か言えることはあるはずだし、それであるから言ったのがある。

 議員が雑誌の記事で言った話題については、議員一人だけではなくて、ほかの色々な人たちがとり上げている。その話題についてほんの少しであっても触れたなら、SNS などで脅迫を受けることになるわけではないだろう。ほかの人たちが話題としてとり上げて平気であるのなら、議員一人だけがとり上げられないのだとは見なしづらい。

 じっさいに SNS で脅迫を受けているのがあるにしても、それをきわめて重いものととらえることはできるが(それも必要なことではあるが)、それはそれとして、話題にまったく触れられなくなるというのはちょっとおかしい。話題がおかしいものであるわけではないからである。