反論するさいの一方法(あまりよい手ではないかもしれないが)

 主張 A と主張 B がある。自分は主張 A をよしとしていて、主張 B をよしとしていない。なんとか自分のよしとする主張 A を通して、主張 B を退けたい。

 自分がよしとする主張 A をうったえる。主張 B を退けようとする。それでも主張 B はしぶとくてなかなか退かない。主張 A と主張 B との水かけ論になってしまう。膠着の状態になる。

 自分のよしとする主張 A のことはとりあえずわきに置いておく。それで、自分のよしとしないものである主張 B に焦点を当ててみるようにする。これを退けたい。そのために、主張 B を批判するようにする。

 主張 B を批判するさいに、主張 B はおかしいとか、駄目なんだ、とすることができる。頭から否定してしまう。それでも主張 B はしぶといので退かないことがある。いったい主張 B をどのようにとりあつかえばよいのか。

 こうすればもっとものぞましいという答えは、そうとうに頭のよい人(それなりに頭のよい人)なら分かるだろうが、残念ながらそれはよく分からない。さしあたっての手として、主張 B について、それはおかしいだとか、駄目なんだ、ということをひかえるようにしてみる手を打つ。

 主張 B について、疑問形にしてみるという手がとれる。疑問形にしてみたところで、主張 B を退けることにはならない。直接に退けることにはつながらないが、揺るがせることはできるだろう。

 二分法をとるようにして見ると、主張 B を疑問形にしないのと、疑問形にするのとの二つが成り立つ。この二つをそれなりに大きなちがいがあるとしてみる。じっさいには大きなちがいはないが、気持ちとして大きなちがいがあるものとしてみる。客観によるものではなく、主観によるものである。

 主張 B を疑問形にするのとしないのとでは大きなちがいがある、と主観ではとらえられる。疑問形にすることを画期的なものだと見なす。客観としてはそうではないが、主観としてはそのようにしてみて、差異があるように見なす。

 差異があるように見なすことができるとすれば、受信と発信のちがいだとできる。疑問形にしないのは受信(受動)である。疑問形にするのは発信(能動)である。そのちがいがある。疑問形として発信する(疑問を発する)という能動だ。水準の高い疑問を発するのではないが。

 主張 B はどうなのか、というふうに(何々か、の)疑問形にしてみる。必然として主張 B を肯定できるというのではなく、可能性として肯定とともに否定もできる、となることが見こめることがある。もし主張 B を部分的にではあっても否定できるのであれば、それをわずかに退けることができる。それで自分の主張 A をうったえることにつなげられる。