論文と言うことにたいする引っかかりがある

 論文なんだから論文で応えよ。言論で応えよ。評論家の人はそう言っていた。

 自由民主党の議員は、性の少数者は生産性がないという発言を、雑誌の記事で行なった。評論家の人が言うには、これは論文に当たるのだという。そして自民党の議員の発言を擁護する雑誌の企画が組まれた中で、評論家の人があらわしたものも論文に当たる。

 自民党の議員の発言や、それを擁護する企画を組んでのせた雑誌は、批判が投げかけられる中で、休刊されることになった。雑誌の記事の中で、偏見や認識の不足があったことを雑誌を発行する会社の社長は声明の中で認めている。

 自民党の議員の発言や、それを擁護する評論家の文章は、論文だということだけど、そうではないという見かたも成り立つ。もし論文ではないのであれば、論文で応えることはいらないことになる。

 論文というのは、決まりをもつものであり、それにふさわしい形式と実質を備えていないとならないものだろう。主張にたいする根拠や論拠が示されていることがいる。それらを備えたものは論文に当たるが、そうではないものはその中(集合の中)には含められそうにない。

 批評とは何かを論じるさいに、文芸評論家の川村二郎氏はこう説いているという。学問があり、エッセイがある。その二つの円の重なり合うところが批評である。

 論文というからには、学問による正しさをふまえていなければならないものだろう。自民党の議員の発言や、評論家の人の文章にはそれがあるとは見なしづらく、基本的な知識の誤りが指摘されている。それは雑誌を発行する会社の社長が声明を出した中にも示されていた。記事の中に偏見や認識の不足があったとしている。

 自民党の議員の発言や、評論家の人の文章は、分類で言えば、論文だとは言いがたい。ふつうに解釈したさいの論文という言葉のストライクゾーンからは外れている。ストライクゾーンを目いっぱいにまで思いきり広げて、とにかく言葉で書かれてさえいれば論文だとするのであれば、そう言えるかもしれない。

 雑誌に発表されたものを論文だとするとしても、雑誌に発表されたものがすべて論文だというわけではないだろう。雑誌といってもぴんからきりまでのものがある。何が論文ではないのかをはっきりさせてもらわないと、論文に当てはまる集合が大きくなりすぎることになりかねない。