アベ(安倍)政治を許さない、を許せないか

 アベ政治を許さない。このかけ声(スローガン)はよくないものだ。もっとのぞましいかけ声にすることがいる。そういうことが言われていた。

 個人として言わせてもらうと、このアベ政治を許さないというかけ声は、ほぼ一〇〇パーセントといってもよいくらいに共感や納得をすることができる。まさにその通りだとか、まさにそうだよなというふうに受けとれる。

 アベ政治を許さないというかけ声をよしとするのはおかしいのではないかとか、愚かなことなのではないかという声もあるだろう。その声には一理あることは確かである。とくに(とりわけ)賢いかけ声だとは言えそうにない。

 かけ声として投げかけられるアベ政治を許さないとは、お笑いでいうとツッコミのようなものだろう。ボケはいまの首相やそのとり巻きである。ツッコミの文句としては、あまり長々しいのだと弱くなってしまう。なるべく短めの文句で言ったほうが決まりやすい。

 なぜアベ政治を許さないのかの理由を言うことがいるのはある。しかし、あえて言わないという手もある。言わずもがなというのがある。言わなくてはわからないのはあるが、たとえ理由まで言ったからといって、すべての人がそれにうなずいてくれるものではない。理由が気になる人は、自分で調べてみることができる。

 理由を言わなければ、よしとしてくれる人の数を増やすことにはつながらないところはあるかもしれない。それはあるのは確かだが、たとえじっさいに言うのではないにしても、人が何かを言ったりやったりするときに、何の理由もなしに行なうとは考えづらい。個人によるものだとしても、何らかの理由があるものだろう。政治は多数決によるのがあり、多数決では少数派は犠牲になる。すべての人を満足させるものではなく、不満を持つ人が出てくるのは避けづらい。

 最善の手段ではないのはある。そうかといって、最悪の手段でもないだろう。それなりの手段なのではないか。人によっては、アベ政治を許さないのかけ声が許容できない人もいるだろう。許容できないで不快に感じる人がいるのは、人それぞれの好みになってくる。

 なぜアベ政治を許さないのかの理由ではないが、なぜアベ政治を許さないのかけ声をよしとするのかの理由としては、いまの首相による政権を許容できないことによる。なぜ許容できないかというと、いまの首相による政権が、個人として許容できないようなことをするからである。

 いまの首相による政権を許容するかしないかは、人それぞれによってちがう。だから、許容せよとかするなとかとは言うことはできそうにない。個人として許容しないという人がいて、許さないというふうにかけ声を言う人がいてもよいのではないか。それを言うのは、自由主義においては、他者に危害を加えるものではないから、かりに愚行だとしても、自己決定に任されることととらえられる。

 肝心なことは、アベ政治を許さないというかけ声にあるのではない。これはたんなる手段にすぎない。かけ声がさし示すところのものである、いまの首相による政権(のやっていること)が許せないものだというのが大切なところではないか。そこの切実さがある。アベ政治を許さないというかけ声を投げかけることになる原因は、いまの首相による政権にある。そう見なせる。

 いや、そうではなく、かけ声で言われていることは本当のことではない。いまの首相による政権は許せるものである。そうした人がいてもまったくかまわないものであり、それは人それぞれの自由な判断に任されているものだろう。

 政治のあり方としては四つのものがあるという。そのうちでいうと、アベ政治を許さないのかけ声は、悲憤型や熱狂型に当てはまると見られる。つり合いのとれた均衡型だとは一概には言えそうにない。そのほかのあり方としては、内幕情報屋型(新聞記者や公務員など)と政治的無関心型があるという。この四つの型は、政治の情熱の強弱と、政治の知識と技能の高低とで分けたものだとされる。