出版社であるくらいだから、投げかけられた批判や、おきたことについて十分に読解(理解)してくれればよい(ものごとをうまく読解していないで雑誌の記事がつくられたことから、まちがいや批判がおきたのだととらえられる)

 週刊誌が休刊にすることになった。この雑誌はもともと売れ行きが伸び悩んでいたという。雑誌が売れなくなる中で、野党や朝日新聞や性の少数者などを叩くといった、右寄りの方向へ向かっていったようだ。

 この雑誌では、自由民主党の議員による、性の少数者には生産性がないという発言を載せた。それへの他からの批判を擁護する企画を新たに組んだところ、それにもまた批判が寄せられた。それで休刊にいたった。これにたいしては、言論弾圧なのではないかとの声もあげられている。

 言論弾圧というよりは、もともと雑誌の売れ行きが伸び悩んでいて、販売数が減っていたようだから、じり貧だったのがある。それで右寄りの方向に向かったのがあり、その方向に向かったことで内容が偏るようになった。その偏りが目にあまるものだったのがある。

 この雑誌で、性の少数者は生産性がないと言った自民党の議員は、セクシャル・ハラスメントについてもこう言っているという。セクハラの概念が日本に入ってきてから社会がおかしくなった。それに国際連合が一役買っている。受ける者の主観にすぎないのがセクハラだ。セクハラの言葉が日本に持ちこまれることによって、どれだけ日本の会社社会の国益を損なってきたかと思うとぞっとします、とのことだ。

 このセクハラについての見なし方は、事実とはちがうものだろう。もともと日本には会社の中などでセクハラが横行していたと言われている。セクハラという言葉がある前から日本にはセクハラの行為が横行していた。セクハラという言葉が日本に持ちこまれるようになって、それまでは認知されていなかったものが、おもて立って問題とされるようになる。以前に比べればセクハラが行なわれるのは多少はましになった。それくらい、以前はひどかったということだろう。

 セクハラという言葉によって日本の国益が損なわれるのではなく、セクハラの行為によって国益が損なわれている。セクハラなどのハラスメントは法としては違法のものであり、やってはいけないことだとされている。個人がもつ人格権を侵害するものだ。省庁は、会社などの組織にたいして、セクハラを予防するように対応をうながしている。組織が全体としてセクハラ(その他のハラスメントを含む)をおこさせないようにしないとならない。

 出版の自由や言論の自由は大事なものであるのはまちがいないが、それはそれとして、とりわけ自民党の議員は、雑誌に載せた自分の発言にたいする批判に応えることがいるだろう。批判に応えないで雲隠れしているのは、国会議員としてはおかしな対応であり、言いっぱなしにするのはいただけない。

 出版社は、雑誌を休刊にして終わりにするのではなくて、雑誌の企画や記事が偏ったものになった流れやいきさつをふり返ってたどるようにすることがあってほしい。どういうわけで、偏見や認知の不足による記事が雑誌に載ってしまったのかを明らかにする。

 今回の雑誌の休刊を、出版社は失敗情報として知識化するように動いてくれればよい。はたから見て、なぜ雑誌に批判が寄せられて失敗したのかということの原因として、陰謀理論によっているのがあげられる。雑誌をつくる人たちは陰謀理論によっていた。雑誌では野党や朝日新聞や性の少数者などを批判する記事を載せていたが、それらの批判の対象について、正しく理解していないままに発言をする。そのことから、偏見や認知の不足の表現になった。

 雑誌の記事で言ったことを送り手(自民党の議員)が言いっぱなしにしているのは、批判の対象となる陰謀勢力が悪いというふうに最終的にはできるからである。最後には陰謀勢力のせいにできる。そうではなくて、雑誌に批判が寄せられたことの原因として、雑誌をつくった人たちや送り手に原因があるとできるのだから、そう見なすのがあってほしいものである。

 雑誌が休刊になったことは、言論弾圧だというふうな見かたもできるかもしれないが、それとは別に、この雑誌をつくる人たちや記事の送り手は、事前においても事後においても、陰謀理論によっていた。批判する対象への理解の不足がおきていた。それが失敗をまねいたのだとして失敗情報だととらえることが一つにはできる。

 どういうあり方であればのぞましかったのかと言えば、陰謀理論によらないようにできればよい。陰謀理論によってしまうと、自分の言うことにたいして反証(否定)をとらず、確証(肯定)をするだけになる。そこから、そんなにおかしいかとして、雑誌では他からの批判を受けつけない態度をとることになった。これは反証逃れであるととらえられる。

 じっさいには行なうのは難しいところもあるが、このようにできればのぞましい。たんに言論や出版の自由をたてにして、それをもってしてよしとするのではなく、社としてどういう倫理観をもっているのかを示す。少数者にたいする憎悪表現(ヘイトスピーチ)をしないといった倫理観を示すことができる。もしそれをもっていればの話ではあるが。必要があればあり方を修正して、一方的ではなく双方向のあり方をとる。

 お互いに批判のやりとりをして、それを受け入れるようにするような、開かれたあり方であればよい。失敗したのであれば、それを情報化して、再発の防止の策をとるようにする。それをせずに、閉じたあり方になってしまうのはまずい。閉じたあり方になるのは、いまの首相とそのとり巻きの悪いところを真似てしまっているものだ。

 陰謀理論によって、一つの文脈によるのだけだと、正しい理解になることにつながりづらい。一つの文脈を絶対化することにつながる。一つの文脈による一神教のあり方だと、教条におちいりやすい。それを避けるようにして、色々な文脈による多神教のあり方をとれればよい。どのような情報であっても、そこに送り手の意図が入りこむのは避けられず、完全に客観とは言えないものである。

 三つの段階に分けられるとすると、入力と思考過程と出力において、それぞれを改めて見直すことがあれば、まちがいを避けやすい。出力されたものがおかしいのであれば、入力か思考過程かのどちらかで、またはどちらにおいても、おかしくなっていることがある。入力や思考過程の偏りを改められれば、出力の偏りを和らげられる。他人のことばかりを言うことはできず、偏りがおきてしまうことはあるものだが。