古くからあるものの範ちゅうの中には、よい価値をもつものもあるし、悪いものもあるから、範ちゅうと価値を切り分けて見られる(新しいものについてもそう見られる)

 古くからあるものだからよいものだというわけではない。奴隷制は古くから行なわれてきたものだが、それが正しいものではなくまちがったものであるとなった。長く行なわれてきた奴隷制が正しいものではなかったことに見られるように、古くからあるからと言って正しいものだとは見なせない。

 テレビ番組で、出演者はそう言っていた。古くからあるものだから正しいと言うことにたいしての疑問の投げかけとしてのものである。この出演者が言っていることを聞いて、言っていることにうなずけるものだととらえられた。

 古くからあるものだから正しいと言う出演者がいて、それにたいする疑問の投げかけとして、その反例となるものがあることを言ったものである。古いから正しいとはかぎらず、まちがっているものもある。新しいからまちがっているとはかぎらず、正しいものもある。そう場合分けをすることが成り立つ。

 古くからあるものだから正しいと言う出演者は、新しいものについて、しょせんは近代にできたイデオロギーにすぎないと言っていた。それにすぎないのだから、新しいものは、あと五〇年や一〇〇年もすれば、またちがったものに取って代わられることになるとしている。

 不易と流行でいえば、古いものを不易として、新しいものを一過性の流行と見なす。この見なし方には、たとえ古いものであったとしても、たとえば奴隷制のようにまちがったものもあったので、反例をとることができるのがある。

 近代にできあがったのは新しいものではあるが、近代といっても二〇〇年くらいはあるだろうから、それなりの年数をもつ。できたてのほやほやなものばかりではない。

 近代にできあがったものはイデオロギーなのかというと、そうしたところはあるだろう。まったくイデオロギーではないというわけではない。しかし、そもそもイデオロギーという語そのものは、近代になってできあがったイデオロギーであるという見かたが成り立つ。日本にとっては外来のものでもある。近代にできあがったものを用いて、近代を批判するのはいかがなものだろうか(いけないというわけではないが)。

 古いものだからすべてよいとは言えないし、新しいものだからすべて悪いとも言えない。白か黒かといったことではないものである。近代にできあがった新しいもののすべてがよいものではなく、悪いものも少なからずあるにちがいない。悪いものも少なくはないだろうが、よいものもまたある。そのよいものを無視するのだとまずい。

 古いものをよしとして、新しいものを悪いとするのは、下降史観の見なし方である。進歩史観の逆である。下降史観が正しく、進歩史観がまちがっているとは言えそうにない。どちらにもまちがったところはあり、用い方によっては正しいところはあるだろう。

 昔はよかったのが、時代が新しくなるにつれてどんどん悪くなって行っているというのが下降史観の見なし方である。これは黄金時代のあり方とも呼ばれている。歴史のはじめには黄金時代があり、歴史の歩みが進むにつれてだんだん悪くなって行き、いまにいたるとする。

 歴史の歩みが進むにつれてだんだん悪くなっているのかというと、そうとも言い切れない。人間の歴史とは、少しずつ自由が増えて行く過程であるという説がある。哲学者のヘーゲルによるこの説は当たっているところがある。当たっているのはあるが、まちがいなく真実かというと、そうとは言えないのもあるから、有力な見かたの一つというくらいなものではあるかもしれない。

 近代に入り、日本の外から色々な文物などが入ってきたが、これによって、日本の古来からあるよさが失われてしまったのか。必ずしもそうではないだろう。もともと日本は外からの文明によるものをとり入れてきたのがある。日本の内と、その外(外来のもの)とは、厳密に分けることはできづらい。江戸時代に鎖国をしていたときにも、完全に外を遮断していたのではないだろう。内には外からのものが入りこむのは避けられない。