市場原理による生産中心主義のあり方で割り切るのではないようにしたい

 性の少数派は生産性がないと言う。自由民主党の議員は、雑誌の記事の中でそう述べた。これには批判が投げかけられたが、そんなにおかしいのかとして、雑誌では新たに企画を組んだ。議員の発言を擁護するものである。

 子どもを生むか生まないかを、生産性が有るか無いかとするのは、適したものではない。ある一つのことで人を還元してしまっている。なので適したものではないが、かりにそれによるとして、子どもを生まないのは生産性がないとできるのかどうか。子どもを生まないのは生産性がないとするのを、たんに事実を指し示しただけだとするのは、市場原理を当てはめたものだろう。

 市場原理を当てはめてみれば、子どもを生む生産性のある人たちに税金を使うのがふさわしく、子どもを生まない生産性のない人たちには税金を使わないようにする、という見かたがとれなくはない。自民党の議員がした発言や、それを擁護する発言のうらには、市場原理によるあり方がかいま見られる。

 市場原理だけをもってしてものごとを決めるのは、市場原理万能主義になりかねない。その危うさがある。それを避けるためには、贈与原理をとることがいる。市場原理のあり方によって失敗することは少なくないので、贈与原理によって補うようにすることは欠かせない。

 自民党の議員の発言では、なぜ子どもを生まない生産性のない(と議員が見なす)人たちに税金を使わなければならないのか、という疑問がとられている。生産性のない人たちに税金を使うのであれば、そのお金を生産性のある人たちにかけたほうがよいではないか、というものだ。

 市場原理からすれば、生産性のない人たちにかけるお金を、生産性のある人たちに回したほうが、一見するとよいように見えないではない。しかし、その見かたには待ったをかけることができる。

 市場原理によってあらゆるものごとが解決するわけではないのはたしかだ。少子高齢の問題があるとして、その問題を何とかして行くためには、市場原理だけによるようにして、それに徹するようにすればうまく行くのかといえば、そうとは見なしづらい。贈与原理をおし進めたほうがうまく行くことが見こめる。

 冷たいところがあるのが市場原理だ。差別を生む。そのいっぽうで贈与原理は、ある共同体の成員であるというだけでその存在を承認されて、適した財の配分が受けられるものだ。同じ仲間だとする。ただたんにある共同体の成員であるというだけで、その存在が承認されて、適した財の配分が受けられるのは、市場原理からすればおかしいものだと映るかもしれない。

 かりにもし贈与原理がまったくとられなければ、市場原理もまた成り立たなくなるおそれが低くない。市場の失敗がおきるのがあるし、市場のあり方に徹すれば、あらゆる人にとって生きて行きづらいような、冷え冷えとした非人間的な社会になりかねない。幸運と不運という偶然の要素がはたらく。幸運な者は生き残れるが、不運な者はそれが見こめなくなる。

 もともとが、いったい何のための目的なのかを、改めて見直すのは益になるものだろう。できるだけ一人でも多くの人が、社会の中で、その存在を承認されて、受け入れられるようにする。それで適した財の配分を受けられる。みんなを仲間であるとする。それを主たる目的の一つだとできる。また理想として、一人ひとりが自立して、自由と平等と友愛(連帯)によれるようにしたい。そのためには、市場原理だけによるのではなく、贈与原理もあるのでないとならない。両方が必要だから、片方だけをとるのではないようにすれば、偏らないですむ。

 生産性があるのとないのとで人を分けてしまうところが市場原理にはある。生産性がある人とない人とで、人にちがいをつけている。これだと、人をあることの手段としておとしめることになる。しかし、それとはちがう見かたができる。東洋の思想では、万物斉同(せいどう)ということが言われている。人はみな同じだという。みな同じだというのは、人を一人ひとり目的だと見なすことができる。贈与原理のあり方に通じるものである。