少数者が生きづらいことになっているとすれば、(偏見や差別により)排斥されていることが少なくなく、その問題を改めるようにして、包摂や承認ができればよい

 性のことはおもて立って語るな。性のことはひと目に触れないようにして、隠すようにするのが日本の古くからのあり方だ。日本の古典文学でも、性のことについてはほとんど語られていない。テレビ番組に出演していた評論家はそう言っていた。

 日本の古典文学はともかくとして、近代文学では、性は多く語られているものだろう。性の描写がない小説のほうがむしろめずらしい。日本の文学の特徴は色ごのみにあるという説もある。

 性のことをおもて立って語らないほうがよいかというと、そうとは言えそうにない。その必要性があれば、語ることが益になるものである。国民の一人ひとりは有権者であり、有権者が何を思おうと自由だし、その思ったことを語ることの自由もある。公共の福祉に反しないかぎりは、思ったことを語ることはよいものだろう。

 日本の国家の法である憲法では、基本的人権の尊重がとられている。個人の尊厳や尊重をよしとするものである。すべての個人はみな同じように尊厳をもち、尊重される。それとともに、それぞれの個人にはちがいがあってよい。同じであるとともに、ちがいがある個人が、それぞれに幸福を追求することがよしとされる。

 雑誌の企画では、野党を叩いたり、朝日新聞を叩いたり、(性などの)少数者を叩いたり、といったものが組まれている。叩かれることになっているものは、贖罪の山羊(スケープゴート)になっている。贖罪の山羊を生んでしまうのは、一つには、少子高齢が進んでいて、国家の危機がおきているのがあるためだろう。

 国家の危機があるときは、贖罪の山羊がとられやすい。権力チェックとして、強者である権力者をきびしく監視して目を光らせるのならわかるが、そうではなく強者ではない者を叩き、結果として政治の強者に益するようになるのはやっかいだ。結果として政治の強者の益になるようなことをするのは、たやすくやらないでもらえればよい。

 国家にはそのもとになる法がある。国家よりも法を優先することができる。その法(憲法)によれば、個人の尊厳や尊重がある。ここを起点にすることができればよい。日本という国家を起点にするのではないようにしたい。国家のために国民があるのだと、国民は手段におとしめられてしまう。そうではなく、個人としての国民がまずあり、国民の一人ひとりがそれぞれに(手段ではなく)目的である。国家はそれを支えて補うためにある。国民よりも数段階ほど下(下位)にあるのが国家である。

 国民がいちばん上にあり(正確に言うと、個人の尊重がいちばん上にある)、その数段階ほど下に国家がある、というのではない見かたも色々とできるだろう。その中で、国民が上で、国家が下だとすることにより、国家という本質ではなく、個人という実存が先立つ、と見なすことが一つにはできる。