党の総裁選において、やろうとしたこと

 石破茂氏は、自由民主党の総裁選に出馬した。石破氏は総裁選の中で何をやろうとしたのか。それは、党の中の汚れをきれいにしようとすることだった。それができたかというと、残念ながら力およばず、かなわなかった。しかし、どれだけ汚れているのかと、それをきれいにしようとする意気ごみは示せただろう。

 石破氏は、総裁選が終わったあとで、こうしたこと(以下のこと)を述べている。党の中での圧力や、冷や飯を食わせることが行なわれている。それがよくあることだとか、多様性であるとかとは私は思わない。

 いま世の中で、強い者が弱い者に圧力を加えている。弱い者がものを言えない。そんな世の中であってはいけない。いま大勢の人がそう思っているのだと思う。

 その中にあって政権政党である自民党は、国民の範とならないといけない。自民党は、強い者が弱い者に圧力をかけるのではないんだね、と人々から言われるようにすることがいる。圧力とかそんなことはなく、みんなで国家と国民のために尽くす。人々から見習われるようにならなければならない。

 学問やスポーツの現場においても、自民党を見習おうよと言ってもらえるようなふうになるのが大事なことである。

 石破氏は総裁選のあとでこのように言っているが、現実の自民党は、人々から見習われるどころか、反面教師にしかなっていないと個人的には見なさざるをえない。ああいうふうになりたいというのではなく、ああいうふうにだけはなってはならない、となっている。

 石破氏が総裁選において何をやろうとしたのかは、石破氏だけが知るところであり、あくまでもそれをおしはかることができるのにすぎない。まちがいなく正しいのだとは言えないのはまちがいないが、一つには、石破氏は、自分から冷や飯を食うのを買って出ることによって、党の中にある汚れを何とかしようとしたのではないか。

 党の中にある汚れというのは、党の中心である首相や政権によるものにほかならない。中心が汚れをためている。それは膿(うみ)である。膿がたまっていて、それを何とかすることができていないし、しようともしていない。

 中心に汚れがたまっているのを何とかするためには、中心が自分ですることは難しい。それを何とかするためには、中心と周縁を転じさせないとならない。周縁が中心になり、中心が周縁になるようにする。中心と周縁のあり方をひっくり返す。

 中心と周縁をひっくり返して、周縁を(中心で)活躍させるようにしないと、汚れを出すことはできづらい。中心をよしとして支持するのは権力の奴隷である。権力の奴隷になるのではなく、周縁に身を置き、中心のおかしいところをさし示す。きたない汚れをかかえる中心の、嘘やごまかしやいんちきをあばく。それをさせじとして、中心は中心にとどまりつづけようとする。それで、総裁選では首相が三選をすることになった。

 これ以外にも、色々な見かたができるだろうし、どれか一つの見かただけが正しいというわけではないだろう。一つの見かたにすぎないものではあるが、石破氏が言っていることは、石破氏による不正義の感覚(これが不正義なのだという感覚)の表出である。

 石破氏による不正義の感覚の表出は十分にできているのかというと、不十分なものにとどまっている。かろうじて、総裁選の中で、ごく短い期間の機会が与えられて、言うことができたのにすぎないものだろう。中心にいる首相やそのとり巻きにそれが届いたのかというと、馬の耳に念仏であり、豚に真珠であり、馬耳東風となっている。なぜそうなのかというと、悪いことを自分たち(首相やそのとり巻き)のせいとして引き受けるのではなく、外にあるものになすりつけていることによる。