雑誌のほうに冷静さがあれば、他からの批判の投げかけがある中で、当たっているものについては認められるはずだから、そうしてほしいものである

 性の少数者には生産性が無いと言った議員の発言について、そんなにおかしいかとして、雑誌では企画が組まれている。(生産性が無いという)議員の発言への批判はどれも冷静さのかけらもなかったという。雑誌ではそう言っているが、思わず冷静さを失ってしまうくらいに燃料を投下してしまっているのは雑誌のほうだろう。雑誌のかまえが上から目線なので、それもまた燃料になっている。上から目線ということについては、あまり人のことは言えないものではあるが。

 雑誌では、投げかけられた批判がどれも冷静さのかけらもないものだとして、まっとうな議論のきっかけとなる論考をお届けするとしている。それで、そんなにおかしいかという企画を組んでいる。題では、そんなにおかしいかとしているが、じっさいのところは、全然おかしくないというものだろう。批判をする方がおかしいというわけである。議員の発言や、それを載せた雑誌の記事と、新しく組まれた雑誌の企画について、非がないということで自己防衛に走っている。

 まっとうな議論のきっかけとなる論考をお届けするとのことだが、まっとうな議論のきっかけにならない論考をお届けしてしまってどうするのか。お届けしているものがおかしいだろう。まっとうな議論という前に、まっとうな認識ができていないことを疑わざるをえない。

 雑誌の記事の中では、こんなことを述べているという。性の少数者である LGBT が生きづらいなら痴漢常習者も同じだとのことだ。生きづらさとしては共通しているというのを言っているのだろうが、同じものだとして同列にするにふさわしいものではない。痴漢常習者は犯罪者なのであり、犯罪を犯した者と同列にあつかうべきではないから、類似していない。

 痴漢をする者の触る権利を社会は保障すべきでないのかとも記事では言う。触られる女性のショックを思えというか、とつづけている。そうであるのなら、LGBT 様が論壇の大通りを歩いている風景は私(執筆者)には死ぬほどショックだ、とのことだ。

 痴漢をする者の触る権利を社会が保障したとすれば、電車の中などで、人を触り放題になる。すでに、触られない権利があるのだから、触る権利ができたらおかしなことになる。触ることは、他者に危害をおよぼすことになるから、それをしない義務がある。電車の中などで、他の人を触ることの必要はないのだから、(触る権利を)受け入れることはできるものではない。

 触られる女性のショックを思えというのか、については、それを思うことはいるものだろう。自由主義では、現実に自分が男性であったとしても、もし自分が女性であったらという想定をとれる。もし自分が女性であると想定すると、ショックを思うことはできる。現実とまったく同じショックを思うことはできないが、ショックは思うことができるので、そこを無視することはできない。ショックというよりも、危害が加わるものではあるが。

 LGBT 様が論壇の大通りを歩いている風景は私(執筆者)には死ぬほどショックだと記事では言われている。ここで言われている、LGBT 様が論壇の大通りを歩いている風景というのは、本当にそんなものがあるのだろうか。その風景があるというのを客観で示せないのなら、主観であるのにとどまっている。論壇というよりも、世間で人々が声をあげているのがあるのだから、そちらのほうがずっと大事なことだろう。

 違法に人に触られるさいのショックと、LGBT についてのことで雑誌の執筆者が個人的に死ぬほどショックを受けるのとでは、ショックの意味あいがちがう。人に触られるさいにショックを受けるのは当然のことだ。それとは別に、雑誌の執筆者が個人的に死ぬほどショックを受けるのは、当然のこととは言えそうにない。個人的に死ぬほどショックだというのは、そう言ってはいるが、本当にそうしたショックを受けたのかは定かではない。

 ほかの多くの人が、死ぬほどショックを受けていなかったり、そこまでたいしたショックを受けていなかったりするのなら、ほかの多くの人の受けとり方のほうが正しいこともあるだろう。個人の受けとり方が絶対に正しいとは言えないという意味あいにおいてのものである。