(自分にとって都合の悪い)批判を排除しても、その批判がまちがっていることにはならない(当たっているから排除されるという見かたが一つには成り立つ)

 みなさん、批判だけしていても何も生み出すことはできない。批判ばかりするのではなく、実行して行く。首相は自由民主党の総裁選の演説で、そう言っている。

 批判ばかりする人は何も生み出さないということだが、何かを生み出せばよいというものではない。いまある悪いものをどけることのほうが、何かを生み出すことよりも必要なことは少なくない。どけるというのは、おおい(フタ)をとり除いて、隠されている穴を見つけることを含む。

 批判よりも、実行をする。それがよいことなのだと首相はしているが、その前に、批判になっているものとなっていないものを分けることがいる。理由があり、だからこうなのだというのは、批判になっている。ちゃんと理由があるものは批判になっているのだから、何の理由もなくただ文句を言うもの(批判になっていないもの)とは分けて見ないとならない。ただやみくもに文句を言っているのが批判なのではない。

 批判になっていないものは置いておくとして、批判になっているものについては、なおざりにすることはできないものである。批判になっているものを投げかけられているのであれば、それが当たっているのかどうかがある。当たっていないというのであれば、それを客観で示せるように説明しないとならない。客観で説明できないのであれば、批判は当たっていることがある。

 国の政治家が国民から批判をされるのは、当然のことである。批判が無いのであればその方がおかしい。なぜ批判がおきるのが当然なのかといえば、政治家は国民を代表しているためであり、国民そのものではないからである。ずれがおきる。ずれがおきないというのは現実にはありえないことである。

 政治家は国民にたいしてまったく少しも嘘をつかないことはできないものであり、そこが政治家の弱点である。国民の代表である政治家は、国民とはちがう意図(intention)をもち、国民にたいして少なからぬ嘘(message)をつく。それにたいして批判をすることができる。

 国民の中にはさまざまな意見を持っている人がいる。国民のすべてではないにせよ、その中の一部と政治家とのあいだに、紛争がおきるのは避けられない。それによって批判がおきることになる。批判がおきることにたいして、批判ばかりしているのはおかしいというのは、解決の手だてにはなっていない。

 解決の手だてをとるためには、批判ばかりしているとされる人たち(じっさいに批判ばかりしているわけではないが)について、十分に承認することがいる。その声を受けとめることがいる。それをしないで、たんに権力者が選挙で選ばれたことをたてにして、一方的に働きかけを行なっても、みんなに値うちのあるものは実らない。

 実行というのは、たんに働きかけをするというだけのことであり、それだけではみんなに値うちのあるものを生み出せない。たとえ権力者にとって不都合な声であっても、それの受けとめが十分にできているかどうかが大事である。受けとめが十分にできていないのであれば、創造性のない実行になる。