首相が言っていることと、やっていることとが、合っているのではなく、大きくずれているのだと見なせる(有言不実行である)

 首相にたいする忖度がおきている。巨大な首相の像にたいするおびえがおきている。これについて首相はどう思うかとたずねる。

 テレビ番組の中で、出演者にたずねられた首相は、こう答えている。首相がこう考えているからこうするということはない。自由で闊達な議論が自由民主党の中で行なわれている。無い無いと言われているが、丁々発止のやりとりはされている。

 質問をした出演者に向けて、さらに首相はこう言う。あなた(質問者)だって、私(首相)にたいして別におそれを抱きはしないだろう。ふつうはしないだろう。質問をした出演者はこれにたいして、おそれを抱いてはいないと受け答えていた。

 質問をした出演者にたいして、首相におそれを抱いてはいないだろうというふうに言い、おそれを抱いてはいないと出演者は受け答えたが、これは首相による誘導尋問である。あらかじめ答えや結論が決まっていて、それを答えさせるようにしむけている。

 首相が言っていることと、(首相の誘導尋問に答えた)出演者が言っていることは、疑わしいものだと言わざるをえない。もしかりに、首相にたいしておそれを抱いていないのだとすれば、もっと厳しい追求がばんばん行なわれていないとならない。テレビ番組の中でもそうだし、ほかのさまざまなところでそれが行なわれているようでないとならない。

 首相の顔色をうかがいつつ、おそるおそる質問を投げかけているのだから、おそれを抱いているのがある。へっぴり腰のようになっている。腰が引けている。首相の機嫌を損ねないようにして、おべっかを言う。機嫌を損ねるようなことは、たとえ言う価値のあることであっても、ひかえざるをえない。何かというと、印象操作だ、と言われかねない。

 首相や政権にたいして、おそれやおびえをまわりが持っている間接的な証拠はある。一つには、N◯K が大本営発表のような報道をしているのがある。権力にたいする批判をせずに、やたらと権力を持ち上げるような報じかたをしている。これは首相や政権がそうするようにしむけているおそれがきわめて高い。圧力をかけている。

 N◯K にかぎらず、ほかの報道機関にたいして、首相や政権への批判をしづらくさせるようにしむけている。それによって閉塞感がおきている。首相や政権のことを、とりあえず持ち上げたりほめたりしておけばまちがいない。さわらぬ神にたたりなしとなっている。

 首相が言っていることをそのまま受け入れるのではなく、その反対が本当のことだと見なしたい。首相が言っていることは、すべて反対のことが本当のことなのではないか。うのみにすることはできないのは確かだ。

 自民党は、国家の公を肥大させることをねらっている。個人の私を、国家の公に都合のよいものにしようとしている。これは生やさしいことではなく、とても危ないことだ。大したことではないというふうに見なすことはできない。肥大した国家の公は、個人の私を押しつぶすことをいとわないものである。

 自民党やいまの首相による政権は、国家主義をとっている。国家主義は国家にそぐう者とそぐわない者を線引きしてしまう。国家にそぐわないとされる者は、権力にたいしておそれやおびえを抱くことになる。それをはねのけて勇気を持つことはあるだろうが。

 国家にそぐう者とそぐわない者を線引きしている中で出てきたのが、自民党の議員による、特定の少数の者を生産性が無いと見なす発言である。こうした線引きをしておいて、権力にたいしておそれやおびえはないだろうと言ってもとうてい信用することはできない。

 形としてはそうであっても、いまは民主主義ではなく、権威主義専制主義になってしまっている。横すべりしている。強い権力がいて、それにおもねることが多く行なわれている。こんな中で、自由で闊達な議論や丁丁発止のやりとりができるわけがない。(自由な議論が)無い無いと言われているのが正しいものだろう。権力や権威をかさにきて、強い者と弱い者に分かれてしまう。権力が濫用される。それを改めないかぎり、おそれやおびえは無くなることはのぞめない。