若さのストライクゾーンが広い(個人においては、広くてよいこともあるが)

 まだ若いから、注意をしながら仕事をしていってもらいたい。性の少数派である LGBT のことを生産性がないと言った議員は、まだ若い。これからは気をつけて注意をしながら仕事をしてほしいと首相は言う。

 生産性がないと言った自由民主党の議員はまだ若いと首相はしているが、この議員の年齢は五一歳である。若いか若くないかというのは相対的なものだから、首相の言うことが完ぺきにまちがっているとは言えないかもしれないが、五〇を超えていれば、昔であれば人生をまっとうしていたくらいである。人生五〇年という時代もあった。

 五一歳で若いというのは、それが許されないというわけではないが、甘い見かただと言わざるをえない。誰がどう見ても若いのだということはできない。若さを根拠としているのだとすれば、その根拠は受け入れがたいものだ。若さゆえのあやまちということはできづらい。かりに若いのだとしても、駄目なものは駄目なのだから、少なくとも公の政治にたずさわっているのなら、言ったことの説明責任を果たしてもらいたい。

 性の少数派を生産性が無いといった議員について、多様な意見があってよいと首相は言う。自民党は多様性を尊重する党であるという。これにたいして、同じ自民党で党の総裁選に出馬する石破茂氏は、ちがう見かたを示す。首相が言うように、多様な意見があるのが自由民主党だとしてそれでよいとは思わない。傷ついた人は少なからずいると言う。

 多様な意見があってよいと首相は言っているが、多様性を否定するような意見について、多様性があってよいというのはおかしい。多様性を否定するような意見なのだから、多様性を肯定するのであれば、そこは否定しないとおかしいだろう。

 多様な意見があってよいという首相の発言が本当であれば、色々なことについて、さまざまな意見があってよいものだが、現実にはそうはなっていない。日本の国についてや、いまの首相の政権をよしとする意見がとり立てられて、歴史がねじ曲げられてしまっている。国益にかなうのはよしとされて、そうでないものはよしとはされない。これのどこに多様性があるのだろうか。多様性を言うのであれば、国益にかなわないものであってもよしとしないとならない。国益にかなうものだけをよしとしていて、多様性などあるはずがない。