おそれ入らないのだとしても、国際法は守るべきだろう

 プーチン大統領に、国際法がこうだからおそれ入ったか、と言う。そう言ったとしても、おそれ入りましたとはならない。首相はテレビ番組の中でそう言っている。

 国際法がこうだからおそれ入ったかと言って、プーチン大統領がおそれ入ったとは言わないとしても、それで国際法に何の力もないことになるのだろうか。持ち出しても何の意味もないことになるのだろうか。そうとは見なせないものだろう。

 まったく国際法に反するようなことをプーチン大統領がやった。それでプーチン大統領が正しくて、国際法がまちがっていることになるのだとしたら、それはふさわしいことだとは言いがたい。

 プーチン大統領に(日本が)おそれ入りました、となるのだとすると、それもまたおかしいことである。国際法を破ることをプーチン大統領がかりにするのだとすれば、それはプーチン大統領が無法者であることをあらわす。法ではなく人の支配のようなことになる。

 日本の国内における強硬派の意見では、たとえ戦争をしてでも、領土をうばい返すことがいるのだというのが言われている。この意見は、国際法から見てふさわしいものではないだろう。戦争をしてでも領土をとり返そうとするのではなく、あくまでも国際法などの法にのっとった中で、力づくではない形で解決を目ざして行く。

 たしかに、国際法を持ち出したとしても、それにたいしておそれ入ったとプーチン大統領は言わないだろう。それは首相の言っているのが当たっているところはある。しかし、かりにプーチン大統領が心の中で国際法におそれ入っていたとしても、おそれ入りましたとじかに言うわけがない。心の中はうかがい知ることはできない。

 プーチン大統領国際法におそれ入ってはいないとどうして言い切ることができるのだろうか。たとえおそれ入っていないようなことを言ったりやったりしているのだとしても、心の中でおそれ入ってはいないということを完全に裏づけるものとは言いがたい。

 甘いところがあるのは確かだが、国際法などの法にのっとってものごとを何とかして行くことができればのぞましい。たとえほんの少しではあったとしても、プーチン大統領は、心の中では国際法をおそれ入っているのではないか。ほんの少しも気にしていないとは考えづらい。

 物理的な力ではなく、文化の力によるのは、やりようによっては力をもつものである。物理的な力が正しさになるのではないのだから、文化の力によってうったえて行くのはやり方によっては有効なものだろう。

 法というのは法則というくらいであり、発見されるものである。絶対の法則ということにはならないものではあるが、法則としての部分も持ち合わせているのだから、それなりの力をもっている。

 力関係によって、力の強い者と弱い者ができて、その勢力のちがいによってものごとをおし進めて行く。それで力の強い者がおし進めることが正しいことになるわけではないし、正しさが決まるわけでもない。

 力の強い者は法を破り、弱い者は守る。強い者は法を破ってもおとがめがなく、弱い者は守りつづける。国の中でも、国どうしでも、そうしたきらいがある。ロシアなどの大国は国際的な法の決まりを守らずに破ってしまう。そうだからといって、大国のやっていることが正しいことにはならない。

 法の下の平等ではなく不平等になってしまっているとすれば、不平等なのを改めて平等にして行くことがいる。大国と小国とのあいだで二重基準(ダブル・スタンダード)になっているとすれば、そうなっていることはおかしい。大国であろうと小国であろうと、国というのは世界の中の一部でしかない。一部が全体よりも無条件で優先されるわけではないだろう。全体の中の一部である国は、大国であろうと小国であろうと、部分のまとまりの共同幻想によるものである。幻想や観念の産物であり、思いこみによるものである。