私(首相)への批判はあるだろうとか、どんどん言ってもらえればと言うが、二重拘束(ダブル・バインド)になっている

 すべては国民のために、ただ国民のために働く。自由民主党の総裁選の討論会で、候補者の石破茂氏はそう述べている。

 石破氏の述べていることは、いまの首相による政権が、そうではないことを指し示しているものだろう。いまの首相による政権は、国民のためという視点が欠けているように見うけられる。顔の見えない国民のためではなく、顔の見える特定の支持者に向けて動いている。

 討論会で首相は、一日たりとも反省を欠かしたことはないと言っている。自分は至らない人間であると言う。批判されることがあり、それが当たっていると思うこともある。どんどん批判をしてくれればよい。記者にそう語りかけた。

 首相は、反省をすることがあるとか、批判はどんどんしてくれてよいとかと言っている。批判が当たっていると思えることもあるとも言う。まったく反省することはないとか、自分への批判は絶対にするなとかと言うよりは、言っていることはましである。しかし、首相が言っていることについて、そのまま受け入れることはできづらい。言っていることとやっていることがちがうからである。

 批判はどんどん言ってくれればということだが、もしそうであるのなら、首相に対抗したり反対したりする者をおさえつけるのはなぜなのか。反対する者をおどすのはなぜなのか。おさえつけたりおどしたりするのは、批判をするなということに等しい。言っていることとやっていることのつじつまが合っていない。

 討論会において首相はふところの広さをかいま見させるようなことを少しは言っていた。しかし、総裁選を開くことを拒んでいたのがある。何としてでも出るのだという石破氏の強い意思があったことで、ようやく開かれることになったいきさつがある。そうしてようやく開かれた総裁選で、日程も短くなった中で、権力者としての自分のふところの広さをにおわすことを言っても、とりたてて説得力が感じられない。

 反省をしているだとか、批判をしてくれてかまわないだとかは、当たり前のことではあるが、それはそれでよいことだ。そのいっぽうで、やることがいるのにも関わらずできていないこととして、情報の管理と開示がある。これができていないで、情報を国民から隠そうとしているのがある。ここを改めることがいるが、改める具体の見こみは立っていない。これからもよりいっそう情報を隠そうとしている。

 危機管理ができていないのがある。危機の管理ができていなく、危機から逃げてしまっている。危機となっている問題がさまざまにあるが、その問題が放ったらかしのままだ。問題を放ったらかしにしていて、それを増やしてしまっている。一つひとつの問題に向き合い、それに対応して行く。これが政治において仕事をするということであり、これができていないようでは、権力者としてやるべき仕事をやりません(仕事ができません)と言っているようなものだろう。

 政治の権力者が言うことややることは、現実とぴったりと合うものではない。少なからずずれがおきる。現実とのずれが大きくなっているのは、権力者が批判とまともに向き合っていないせいなのがある。それで膿(うみ)がたまり、緊張が高まっている。膿や緊張がたまっているのは、現実とのあいだのずれが大きくなっていることだから、それを何とかしないとならない。

 たまっている膿や緊張による現実とのあいだの大きなずれを何とかすることがなく、放ったらかしのままにするのだと、権力は虚偽意識(イデオロギー)のかたまりになる。選挙で国民から選ばれているのには正当性はあるが、それによってつくられた政治の権力は、擬制(フィクション)であるのはたしかだ。国民の意思がまんべんなく反映されているとは見なしづらい。