お父さん、憲法違反なの、と言われた自衛官すらいるとのことだが、じっさいにその人を連れてきてもらわないと完全な信ぴょう性があるとは見なしづらい(お父さんが憲法違反なわけではないのもある)

 お父さん、憲法違反なの。そう言われた自衛官すらいる。このままでよいのだろうか。首相はそう言っている。

 自由民主党の総裁選に出馬する石破茂氏は、ちがった見かたを示す。お前のお父さん憲法違反なんだって、と言われる子どもはいまどきいない。

 首相と石破氏の、どちらの見かたがふさわしいだろうか。人によって異なるものだろう。個人としては、石破氏の見かたのほうがふさわしいと見なせる。

 自衛隊憲法違反だとするのだけでは、かなり限定された見かただろう。自衛隊についてと憲法については、それぞれにちがった文脈である。それらについてを子どもは十分に分かっているのではないのだから、時間をかけて少しずつ理解を深めて行くようにする。

 子どもにとって、憲法違反というのは、難しい言葉なのではないか。生活の中で、憲法違反というのを用いる機会はないだろうから、ふつうに生活を送っている水準とはちがったことがらになる。そのことがらについて、子どもに聞かれて、大人がすぐに答えられなくても、やむをえない面がある。

 憲法違反というのを言うのであれば、既成事実というのもまた知っておくのはどうだろうか。既成事実の積み重ねの重みというのがある。それを抜きにすることはできづらいし、またそれがあることのまずさもまたある。既成事実の積み重ねの重みはかなりのものになるので、まずはそこをふまえた上で、それからものごとを見て行くようにした方が、現実にもとづいた見かたになりやすい。

 憲法違反かどうかについては、決疑論(casuistry)や関係論による見かたが成り立つ。これは二元論によるものではなく、連続した見かたである。白と黒ではなく、灰色のところを見る。白か黒かではなく、灰色のところを見ることができるのは、大人のあり方なのがある。割り切るのではなく、割り切ってしまわないものだ。

 関係論によるとらえ方では、二つのものはまったく質を異にするのではなく、たがいに関係によって成り立つ。相対のものである。東洋の思想で言われる陰と陽のように、互いに断絶したものではなく、互いに流通しているものである。

 白か黒かと割り切らずに、割り切れないものだとしてしまうと、あいまいなものになる。その欠点があることはいなめない。その欠点をとらないようにして、白なら白や、黒なら黒と割り切ってしまうのがよいのだろうか。

 憲法違反であるとすれば、違反ではないようにすれば、のぞましいあり方になるのかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。自衛隊憲法違反ではなく、正式なものになるとしても、戦争に関わるのがある。

 せっかく憲法で誓った不戦による平和をないがしろにして、世界のさまざまなところでおきる戦争に関わる。これがまちがいなくよいことなのだとは言うことはできない。せっかくの憲法による不戦の誓いが台なしになってしまう。

 戦争というのは、きれいごとですむようなものではなく、人が人を殺すものなのだから、それに関わることを、子どもに聞かれたら大人はどう説明するのかがある。それこそ、憲法違反だというのよりもより嘘やごまかしや欺まんを避けることは難しい。

 戦争に関わるのは、それがきれいごとによっていて、嘘やごまかしや欺まんによるからよくないのだというよりは(それもあるが)、戦争そのものがよくないことなのがある。それはそれとして、いずれにしても、大人の世界には、少なからぬきれいごとはいるし、嘘やごまかしや欺まんは避けづらい。だからといって、戦争をすることをよしとしてよいものではないことはまちがいがない。

 戦争の是非については、これだけではなくて色々な見かたが人によってできるものではあるだろう。世界の中では、基本として戦争は法によって禁じられているのがあるから、武力によるのではなく、力によるのではない話し合いなどの方法によってもめごとを何とかするようにできればのぞましい。

 自衛隊憲法違反かどうかというのには、さまざまな見かたがとられているのがあるだろうし、違反であるにせよないにせよ、いずれにせよ少なからぬごまかしは避けられないのがある。きれいごとやごまかしをゼロにすることはできづらい。子どもに聞かれたときに大人がうまく説明しづらいのは、きれいごとやごまかしを抜きにはできないのがあるから、それを逆に言えば、まったく善でもなくまったく悪なわけでもない。

 悪いことをやるためにあるのではないとすると、趣旨からして、まったく面目が立たないわけではないだろうから、(憲法違反であるために)まったく面目が立っていないというふうに言うのにはうなずくことはできない。まったく面目が立っていないのを、面目が立つようにするのだというのは、やることの実態として、まったく善なことをするわけではないのだから、そこを見ることがいる。まったく善なことをするように言うのはきれいごとでありごまかしだろう。