十全に正しくはないからこそ、まちがいをまぬがれないのだし、少なからぬ嘘を言ってしまうことになる

 政治家は、学者や評論家ではない。正しい論理を述べていればよいものではない。総裁選の討論会で、首相はそう言っていた。

 学者と評論家を同じに並べるのは適したものではないだろう。学者や評論家と言っても、それぞれにさまざまな人がいるし、色々な分野がある。政治家にもまた色々な人がいる。一般化することはできづらい。

 首相が言うように、かりに学者や評論家は正しい論理によるのだとしても、政治家がそれを持たなくてよいということにはならない。さまざまな声に耳を傾けなくてよいことにはならないものである。

 首相が言う政治家というのは、おそらく首相(自分)のことを言っているのだろう。政治家は正しい論理はもたなくてもよいのかというと、その見解にはうなずくことができづらい。

 学者や評論家とはちがうのが政治家だということだが、相違点と共通点を見られる。用いているものは共通している。

 学者や評論家や政治家は、それぞれに属性や肩書きは異なっているが、用いているものである言葉は共通している。営みとしては、やっていることは同じではないかもしれないが、根拠を支えとして主張または行動をする点では大きなちがいはない。

 正しい論理と言っても、すべての人がはい(イエス)と言ってくれるようなことを言うことはなかなかできるものではない。しかし、なるべく正しくなるように努めることはあってほしいものだ。

 逆にいえば、正しい論理でないことで、政治家がものごとを行なって行くと、どういうまずいことがおきるのか。その生きた例が首相(いまの政権)なのではないだろうか。極端に言ってしまえば、政治家が正しい論理によらないと、言葉が死んでしまうだろう。ご飯論法や信号無視話法が国会で多く用いられることにそれがあらわれている。

 正しい論理になるように努めるのをしないで、それをまったく手放してしまうのであれば、目をおおいたくなるようなひどい現実のあり方になってしまう。政治ではその危険性が高い。学者や評論家によるものとして、首相は正しさを低く価値づけしているようだが、じっさいにはその逆だろう。

 完ぺきにはできないにしても、なるべく言うことややることが正しくなるように努めるのは、政治家にとって必須のものであり、欠くべからざる必要条件なのではないだろうか。