概観をするさいに、雑になってしまい、まちがってとらえてしまうと、構造として土台からその上の家屋まですべておかしいことになる

 概観ができているかどうか。それを改めて見ることがいる。概観がきちんとできていないと、適した判断や意思決定をとりづらい。

 概観ができているかどうかを改めて見るさいに、はじめの価値にまでさかのぼることがいる。価値は、前提条件としてとる根拠である。はじめにある価値にまでさかのぼり、そこがまちがえているのであればなるべく正す。まちがえているのが正されないでそのままだと、まちがった概観がとられたままになる。雑なとらえ方をとりつづけることになってしまう。

 概観というのは、荒俣宏氏によると、起源と現在と未来によるものだという。これをきちんととれていないと、まちがったものごとの見なし方になりかねない。起源を見るとしても、それを絶対の正確さでとらえるのはできづらく、あくまでも相対の正しさでしか知ることはできにくい。限定されたものではあっても、できるだけ正しく知るようにできればのぞましい。

 はじめにある起源を見るさいに、絶対にまちがいなく正しいものは知りづらい。限定されたものにすぎないものである。演繹として、まちがいなくこうだと言えるものではなく、帰納として、こうであるだろうといったことになる。演繹で断言するのではなく、帰納によりがい然性のあるものとしておくのが無難である。

 演繹で断言してしまうと、利益は高いが危険性も高い。そのいっぽうで、帰納によりがい然性のあるものとしたほうが、利益はそれほどでもないが危険性も低い。そのちがいがある。

 こうだと言い切ってしまうと、利益の高さはあるが危険性もまた高い。構造の土台がもとから崩れることがある。土台がもとから崩れてしまえば、その上に乗っかっている家屋までぜんぶが駄目になってしまう。

 言い切ってしまうのではなく、こうであるだろうというがい然性にとどめておけば、こうであるだろうとするのとはまた別のものにも目を向けやすい。耳を傾けられやすい。構造の土台がもとから崩れてしまうのを防ぎやすい。土台の上に乗っかっている家屋までぜんぶが丸ごと駄目になるのは避けられる。

 概観をするさいの危険性として、はじめの起源のとらえ方がまちがっていることが少なくない。それを避けるには、早まって起源と現在と未来を決めつけてしまわないようにする。促成栽培のように早まって決めつけるのではなく、低温熟成のようにして時間をかけて行く。まちがった雑な概観をしてしまわないようにするためには、早まって決めつけないようにして、時間をできるだけかけて行くのが有効である。

 はじめにある起源を見ることになるべく多くの時間をかけるようにする。現在と未来についてはひとまずわきに置いておく。過去の起源をできるだけ時間をかけて十分に見る。そうすることによって、ふり返り(レトロスペクティブ)がとれる。このふり返りにどれだけ力を注げるのかがある。ふり返りが正しければ、現在や未来を見ることの正しさにつなげられる。

 ある一つの過去の起源というのだけをとらないようにしたい。過去にあったことは、一つに決められるのではなく、さまざまな痕跡が残っている。さまざまな過去の痕跡をできるだけ十分にすくいとることが肝心だ。漏れがないようにする。

 後ろ向きの正しさと前向きの正しさは関わっているのがある。前向きの正しさ(プロスペクティブ)に比重をおいてしまうのはのぞましくない。そうではなくて、後ろ向きの正しさ(レトロスペクティブ)に重きを置くようにする。ふり返るようにして、反省をして、残されているさまざまな過去の痕跡をもれなくひろい上げる。やり尽くせることではない。そこに力を入れられれば、まちがった支配的な大きな物語をとってしまうのを避けやすい。

 支配的な大きな物語の一つをとるのではなく、物語を複数化する。たった一つの日本ではなく、(人によって)さまざまな日本があってよいものだろう。悪しき相対化だと言われてしまうのはあるかもしれないが。それはいなめないが、じっさいに、ずれがあるのは認められる。同一ではなく、差異をとることはできるところがある。一神教ではなく、多神教のあり方をとれるところがある。さまざまな遠近法による。

 多神教のあり方だと、玉と石をいっしょにするまずさがおきてしまう。それについては、文脈(物語)を一つだけとるのではなく、二つ以上の文脈の生成があり、それらの複数の文脈どうしを検討して調整する、といったことができれば、理解を深めるのにつなげられる。単眼ではなく複眼で見られるから、単眼であるよりかは複眼のほうが情報量が多いので、まちがいを多少は避けやすい。