国民にたいして抑圧としてはたらくのが軍隊であり、それを性善のものとして見ることはできづらい(国家権力もまた性善として見ることはできない)

 すべての自衛隊員が強いほこりをもって任務をまっとうできる環境を整える。そうするのがいまを生きる政治家の責任だ。私は責任をしっかり果たしていく決意だ。首相はそう言っている。

 首相が言うように、すべての自衛隊員が強いほこりを持つことはいるのだろうか。その必要性があるとは見なしづらい。強いほこりを持てればそれでよいというものではない。強いほこりをもってとんでもなくまちがった方向へ進んでいってしまうこともあるからだ。たとえ強いほこりが持てなくても、まちがった方向へ進まないのであればそれはのぞましいことである。

 すべての自衛隊員がと首相は言っているが、すべての自衛隊員が強いほこりを持つことを、どうやって確認するのだろうか。もし強いほこりを持てない隊員がいたらどうするのだろうか。そこに責任を持たないのは、責任を放棄していることになる。すべてのと言うのはくくりが大きすぎるものであり、首相の思いこみが入りこんでいる。内面は人それぞれのものである。

 自衛隊のために日本があるのではないのだから、自衛隊のことをそれほどおもんばかることがいるのだとは見なしづらい。自衛隊は日本の国の部分集合にすぎないのだから、日本全体の中の一部でしかないものだろう。一部だからどうでもよいというわけではないが。

 自衛隊員がほこりをもつかどうかは、自衛隊員の個人の問題である。まったくほこりをもてないのなら入隊しない選択もできるし、途中でやめる選択もできる。法律に違反しているのではないから、合法の存在である。

 自衛隊は国家装置の一つであり、国家の権力が暴走しないようにするのと同じような抑えがいる。強くほこりをもつことができるようにというよりは、歯止めがかかっていたほうがよい。歯止めはすでにかかっていて、そのうえで強いほこりが持てるようにするのだ、ということかもしれないが、どうやっても強いほこりが持てないこともあるし、つねにずっと強いほこりを持ちつづけるというのはおかしい。現実的ではない。そんなに重要なことでもない。もっとほかに重要なことはある。

 自衛隊員が強いほこりを持てるようになれば、国民にとって益になるとは言い切れない。むしろ危ないところがある。自衛隊は国家の論理で動くものなので、いざというさいに国家は守るかもしれないが国民を守ることは約束されていない。国民を犠牲にしてでも国家を守ることがある。さきの戦争では、軍隊は最後まで国家(国体)を守ろうとしたが、国民は犠牲にした。

 自衛隊員がほこりをもって任務をまっとうできる環境を整えるのではなく、自衛隊員が戦力として活躍しなくてすむような環境を整えるべきである。自衛隊員が戦力として活躍しなくてもすむように、まわりの国などと友好を築いて行く。それをしないことは、いまを生きる政治家の責任を果たさないことである。

 自衛隊員のほこりよりも、不戦の誓いのほうがより重要だ。個人としてはそう見なしたい。愛国心というのは、国が戦争をしないようにして行くことであり、国民が戦争によって命を失わないようにすることだという見かたがとられている。国が戦争をしないという愛国心でほこりを持てばよいのではないか。

 戦争とは、自国の国民の命をうばうことである。他国(敵国)の国民を介して自国の国民を殺す。だからよくないことなのだと、哲学者のシモーヌ・ヴェイユは言っているという。戦争をせず、自国や他国の国民の命を失わせないのは、正しいことであり、ほこりにできることの一つである。それとともに、過去に自国がおかした大きな失敗について、まともに目を向けずにきちんと反省できていないのを、十分に失敗情報として定着できればよい。