党の中の多数派と少数派の、よって立つ立ち場のちがい

 与党では総裁選が行なわれる。首相の三選はほぼ確実と見られている。与党の国会議員の多くは首相を支持すると見られている。党の多くの派閥は首相を支持しているようだ。

 総裁選の中でかいま見られる、与党である自由民主党のありようは、目的論と功利主義がとられているととらえられる。これは、国民にとってのではなく、与党の政治家が保身をするための目的だ。国民の効用ではなく、与党の政治家の効用が高くなるような行動をとっている。

 国民のほうを向いているのではなく、与党の政治家は自分たちの保身や効用をとってしまっている。これを改めるのがあってほしい。自分たちの保身を目的にするのではなく、国民の幸福や効用を高くすることを目的にするのがふさわしい。

 与党の政治家が、自分たちの目的論や功利主義をとっているのは、党の中の少数派が冷遇されていることからうかがえる。党の中の少数派である石破茂氏は、目的論や功利主義からは距離をとっている。そこが、党の中で首相を支持している多数派の政治家とは異なっている点だろう。

 自民党の中の首相を支持している多数派は、自分たちの目的論や功利主義をとり、法をないがしろにしがちだ。法よりも、党という集団の中のおきてを重んじてしまっている。それを必ずしもよしとはしていないのが石破氏だというのがある。党の中でとられているおきては、具体のものだが、そこから離れて抽象から見ることがいる。それができていないし、やる気もないのが、党の中の多数派だろう。

 石破氏がかかげている、正直と公正は、抽象のものである。これをよしとしないのが、党の中の多数派であり、その中心にいる政権や首相である。政権や首相は、自分たちを特例として特権化してしまっているのが目だつ。具体で見てしまっていて、そこから離れてメタの視点で抽象から見ようとしていない。抽象のものである、正直と公正を嫌っている。ここに問題があるという見かたが成り立つ。

 自民党の中で、首相をよしとする多数派は、短期の目先の利益に目がくらみ、効率を優先している。国民のではなく、自分たちの目的論と功利主義をとっている。かたや少数派である石破氏は、それをとるのではなく、抽象の法による義務論をとっている。結果がよければすべてよし、とはしないものである。結果や帰結のよし悪しとは別に、義務はそれとしてできるだけ守らなければならない。

 石破氏は効率よりも適正さを見ているところがある。抽象の法による義務論は、自由主義や民主主義にかなうものだろう。このさいの民主主義とは、専制主義や権威主義ではないのをさす。自由主義や民主主義をなおざりにしがちなのが、党の中の多数派がよしとするいまの首相や政権だ。わかりやすく対照として見ると、そうした見かたをとることができる。いっぽうが善でもういっぽうが悪というような分かりやすい単純なものが現実ではないだろうが。