改憲の発議をしないのは政治家の怠慢というより、それを無理やりやろうとするのは首相の自己満(足)だろう

 改憲の発議をしないのは政治家の怠慢である。首相はそう言っている。これは怠慢というよりもむしろごう慢だろう。憲法の改正の発議は、政治家に許されているものではあるが、何が何でもやらなければならない義務ではない。許されていることと、義務であることとを、はきちがえてしまっている。義務ではないのだから、やらなくても全然かまわないのである。

 政治家の怠慢があるのだとすれば、改憲の発議をしないことではなく、憲法について学ばないことだろう。学びつくせるものではないのだから、無知の知といわれるように、知らないことを知ることがいる。

 少数派の意見を尊重して、論じ合いを重ねることがないのも、政治家の怠慢だろう。改憲をするのは否定されることではないが、改憲をしないのもまた否定されることではない。どちらであってもよいはずだ。国民の手で改憲をするのはあってもよいかもしれないが、国民の手で改憲をしないのもまたあってもよいはずである。どちらにしても、国民の手(さまざまな声)に力点があり、改憲をすることに力点があるのではない。

 これまでに、何年間もかけて、この時点を出発点として、これくらいまで議論を積み重ねてきた。そういうことであるのならまだしも、中身がすかすかの形だけのやりとりを行なってきたのでは何の積み上げにもなっていない。まず出発点が大事であり、そこにおいて、認知の歪みをできるかぎり払しょくしなければならない。そしてやりとりの途中においても、できるだけ認知の歪みが混ざりこんでしまわないように細心の注意を払わないとならない。

 認知が歪んでしまうのは、熱によるものだが、こればかりがとられてしまい、冷が欠けてしまっているのが、首相が呼びかけている改憲の発議だろう。熱ばかりがとられすぎていることで、認知が歪んでしまっていると見うけられる。これは危険なことである。冷が足りていないで欠けてしまっている。冷をとるためには、自明のものとしている、色々な語句(用語)とその意味を改めて見て行くことがいる。語句と意味を自明のものとすることで不正確になっているのを改めて見直し、正確になるように反省するのがあるとよい。

 首相がやろうとしている改憲の発議をやったとしても、国民にとっては、だし抜けに行なわれるものとなるのが予想できる。改憲の発議をして、国民投票をするとなると、いきなり行なわれることになり、正確な判断ができるとは見なしづらい。いまやらなければならない根拠がうすい。二〇二〇年の東京五輪をひかえているいまの時期にやらないといけない必然性がない。五輪をひかえていてあわただしい中でやるのが適したことだとは見なしづらい。