反対勢力(オポジション)としての野党と、同じく反対勢力としての党の総裁選に出る(首相と対立する)候補者

 批判ばかりするのなら、野党と同じである。総裁選で、首相のことを個人攻撃をして批判をするのは野党と同じだという。自由民主党参議院の幹事長は、総裁選に出馬する候補者にそう言うつもりだとしている。

 総裁選に出馬する石破茂氏は、首相にたいする批判をいとわないかまえを示している。その石破氏のことを、自民党参議院の幹事長は、野党と同じだというのである。これを逆から見ると、野党をあしらうのと同じあり方を、石破氏にもやろうとしているのだととらえられる。

 総裁選では、首相を支持するのだけがよくて、それをしない者がいてはいけないのか。そうとは言えそうにない。最高価値が成り立たないのがある。首相を最高価値をもつものとはできないので、首相のことだけをよしとする一神教のあり方はふさわしくない。首相のことだけをよしとする一神教のあり方は、首相のことを絶対化することにつながる。価値の絶対化である。

 価値を絶対化するのは単眼のあり方である。首相をよしとするのだけをとっている。これだと情報量が十分にとれなくなりがちだ。十分に情報量をとるためには、単眼ではなく複眼にするのがのぞましい。ある価値と、それとは別の価値をとる。こうすることで一つの価値を絶対化する一神教のあり方を避けられる。

 客観とはいえず、主観であるのが価値であり、首相であるからといって、すべての人が認める客観の価値とは言いがたい。首相は客観の価値をもつはずがないし、その価値を強いるはのぞましいことだとは言えそうにない。価値の前に、人それぞれの価値意識がある。あることがよいとはいっても、せいぜいが、それなりの人を満足させられるといったものにすぎず、限定的なものにとどまる。その満足も錯覚であるかもしれない。

 総裁選で首相と対立する石破氏と、それを支持した者は、干されたり冷遇されたりするというおどしが行なわれているという。このおどしは、石破氏のことを野党と同じようなものだと見なしていることから来るものだととらえられる。野党のことを冷遇して軽んじるのと同じように、石破氏とそれを支持する者もまた冷遇して煙たがる。

 たしかに、首相とそのとり巻きにとってみれば、自分たちを批判してくる者(たち)がうとましいのは気持ちとしてはわからないではない。しかし、うとましいからといって、冷遇したり遠ざけたりするのでよいとは言えそうにない。冷遇したり遠ざけたりすれば、一時的にしのげるのはあるかもしれないが、根本的にどうにかなるものではない。

 首相とそのとり巻きや、首相を支持する者(政治家)たちにとってみれば、首相の常識はそのまま自分たちの常識だ。しかし、首相の常識が非常識なのだという見なし方も成り立つ。ある人の常識は、別の人にとっての非常識となることがある。ここにぶつかり合いがおきるもとができる。

 自分たちの常識から照らしてみて、ほかの人(政治家)のことを非常識だと決めつけるのではなく、それもまた一つの常識であると見なすことで、相手を受け入れることにつなげられる。ほかの人のことを非常識だと決めつけてしまえば、受け入れることにはつながりづらい。

 自民党の総裁選では、首相による常識を、非常識だとすることもできるのだから、首相のことを非常識だと見なす常識も受け入れられるのがのぞましい。そうあってほしいのがある。ある人にとっての常識は、ほかの人にとっての非常識であることがあるからだ。これによってぶつかり合いがおきることになるわけだが、そのぶつかり合いをとるのが民主主義による政治家どうしの競い合いだろう。

 対等な競い合いの相手として、首相とそのとり巻きは、首相に対立することになる者(たち)を、受け入れるようにするのがのぞましい。そうでなければ、民主主義とは名ばかりのものにすぎないだろう。見せかけのいんちきの安定ではなく、じっさいの(多少の)不安定をとるべきである。これは、あとになって大きな不安定がおきるのを避けるための手でもある。みなが同じありようの画一さは不安定をまねく。

 論点としては、いまの首相による政権がよいか悪いかという実質とは別に、形式を見ることができる。いまの首相による単一の世界観が全体をおおってしまうと、画一のあり方におちいる。イエスマン(賛同者)ばかりになってしまう。いまの首相による政権がもつ単一の世界観だけだと、たった一つの現状認識しかとることができない。この現状認識はまちがったものであるおそれが高いものであり、まちがった方向へ進んで行くのに歯止めがかからないのはまずい。

 自分たちのことを絶対化するのではなく、自分たちに対立することになる者のことも、それもまた一つのあり方(文脈)であるとして、承認するようにする。そして冷遇しないようにして、平等に財を配分する。それができていないし、やろうとしていないのが、いまの首相による政権だと見なさざるをえない。

 首相と対立する候補者が、国民の切実な民意(の一部)を反映して代表していないと、どうして言うことができるだろうか。首相による政権と対立することになる反対勢力もまた、国民の民意(の一部)を反映して代表していると見なすことができる。それを十分にとり立てることがいる。

 数の多い者が優遇されて、少ない者が冷遇されるのは、社会の中で差別や排除がおきるのをうながす。それをうら返せば、(党の中で)少数に当たる者が冷遇されるのは、社会の中にある差別や排除をすくい取って代弁しているのだと見なせないこともない。数の多い少ないと正しさとは切り離して見ることができるので、数の少ない者の意見が正しいこともある。そこをくみ入れたらどうだろうか。