慣習について、範ちゅうと価値を分けて見ることができる

 障害者の雇用の数を水増しする。それが発覚したなかで、裁判所も障害者の雇用の数を水増ししていたという。法の番人なのに違法なことをしていたのだから、許されることではない。

 総務相は、悪意ではなく慣習として、障害者の雇用の水増しが省庁で行なわれていたと言う。また財務相は、法を守って障害者の雇用を十分に行なえば、障害者の雇用のうばい合いになりかねない、などというおかしな言い訳をしている。子どものような言い分だ。

 総務相は、悪意はなく、慣習として水増しが行なわれていたと言っているが、慣習というのを、範ちゅうと価値に分けて見ることができる。慣習の範ちゅうに当てはまるとしても、その価値がマイナスなものであれば、正されることがいる。たとえば、人という範ちゅう(集合)の中には、よい人もいれば悪い人もいる。人だから悪くはないとは言えない。

 いまの首相による政権は、プラスの価値の慣習をぶち壊(そうと)して、マイナスの価値の慣習を新たにつくったり温存したりしているような、あべこべなことをやっている。いまの首相による政権は、個人的にはまったくでたらめだと言いたいが、制度的な保守として、よい慣習は残して、悪いものは改めて見直す機会をもつというふうにするのがあってよいものだろう。