政権は、疑惑についてもし身の潔白だというのなら、むし返してくれてありがとうと大いに感謝するべきである

 まだ解決していない政権の疑惑をむし返す。そのことに政権はいきどおっているという。まだ解決していない政権の疑惑であるのにもかかわらず、政権はそれを終わったことだとしている。

 たいしたことがないのであれば、短期で集中して力を入れて疑惑を明らかにすることが合理的だが、政権はただ時間を引きのばして、疑惑の真相を明らかにすることから逃げている。危機に対応ができていない。

 政権は、まだ解決していない疑惑をむし返すなとしているが、解決していないのだからむし返すのが当然だ。すすんでむし返すのに手を貸してもよいくらいである。手を貸さないばかりか、いきどおるのははなはだしい筋ちがいである。身の潔白を示す機会を生かさないで、説明責任をきちんと果たそうとはしていない。

 政権への疑惑をむし返すことにいきどおるのはおかしいのであり、これは政権が怨念の感情によって動いていることをあらわす。怨念の感情につき動かされて、駆られているのである。これは、政権への疑惑のみに当てはまることではなく、政治の全般に言えることだろう。

 政治の全般に言えることであり、歴史の認識にもそれがあらわれている。いまの首相による政権は、自民族中心主義におちいっていて、他民族を下に見て排斥しているのがある。対等に見るのではなく、自国を優として、他民族を劣として価値づけている。自国にたいして批判や文句を投げかけてくる他民族を劣として見なす。いわれがあって、自国にたいして批判や文句を投げかけているのにもかかわらず、そのいわれは無いことにして、怨念の感情をもってしまう。

 たしかに、自分たちに向けて批判や文句を言ってくる者たちに怨念の感情をもつのはわからないことではない。不快感をいだくのは感情の自然というところはある。しかし、怨念の感情によって動いてしまうのは国にとってははなはだまずい。それで動いてしまうと、議論ができづらくなる。議論がまったくといってよいほどできていないのは、いまの首相による政権に目だった特徴だ。

 総裁選では、首相に対立する候補者や、その候補者を支持する者を、あとで干したり冷遇したりするとして政権はおどしているという。これは、政権が怨念の感情によって動いているのをあらわす。これでは議論は成り立ちようがない。議論においては、人格と切り分けて論じ合うことがいる。人格への攻撃だとは見なさないことがいる。人格と判断を切り分けるようにしないとならない。これができていずに、いっしょくたにしてしまっているのが、いまの首相による政権だろう。すべてとは言わないが、色々なことにおいて、政権は判断や意思決定をまちがっていて、それをうわべでとりつくろってはいるが、じっさいにはとりつくろえていないのがある。

 怨念の感情をもつのが長期の記憶だとすると、そこに入れてしまわないで、短期の記憶にするのでないと、開かれた論じ合いはできづらい。うらみを長期の記憶に入れてしまうと、閉じたあり方になってしまう。いまの首相による政権は、ほんのちょっとしたうらみでも、すすんで長期の記憶に入れようとしている。あいつは裏切った敵だとして、固定化して見てしまう。自己欺まんの自尊心に強くよってしまっている。このあり方は、国や国民にとって害があるものだと言わざるをえない。