政権にとっての(自己中心的な)中立や公正というのをひとまず置いておけるとすると、報道機関は基本として政権や与党にとっての反対勢力(オポジション)であり、反対勢力は国民の政権や与党への不満をすくい取る大事なはたらきをになっているのがある

 総裁選に出る候補者を、平等にあつかう。自由民主党の総裁選について、候補者を必ず平等と公平になるようにあつかってほしい。自民党の総裁選管理委員会は、報道機関に向けて、中立と公平と公正になるような報道をするように求めている。

 前回の総裁選でも、自民党は報道機関に向けて、同じことを求めたという。テレビ番組の中で、首相に批判的な報道をした。その番組の内容が偏っているとして首相および自民党は、偏りのないような報道をすることをうったえた。

 総裁選の候補者である石破茂氏は、正直と公正をモットーとしてかかげている。いっぽう同じく総裁選に出る首相は、責任と実行をかかげることにしたようだ。これを比べてみると、責任と実行をかかげる首相は、(石破氏がかかげているものである)正直や公正はどうでもよいということになるだろうか。そこまでは言えないにしても、それほど正直や公正に重きをおいていそうにはない。それにもかかわらず、報道機関に向けては、報道の中立や公正を求めている。

 影響力の大きい報道機関が、首相のことを少しでも悪く報道すると、それを首相や党はとがめ立てするのがある。そのいっぽうで、首相のことを持ち上げるものはとがめられない。これは見かたによっては中立や公正に反していることだろう。新聞の広告や(保守系の)雑誌の記事には、首相を持ち上げるようなことが言われている。また、首相を持ち上げてべたぼめする内容や題名の本が、いっせいに出版されているのがある。

 首相をもち上げてべたぼめするような内容や題名の本が出版されて、それの広告が打たれるのは、出版の自由のうちではあるから、それがいけないことだということはできないのはある。いけないことではないが、あつかいの公平さということでいえば、公平であるとは言えそうにない。首相を叩くのも同じくらいとり上げるか、もしくは他の候補者を持ち上げるものも同じくらいとり上げることがいる。

 たしかに、影響力の大きい報道機関が報道するものは、十分に平等や公正や公平なものであるとは言えないのはある。そうではないものは少なくはない。なるべくそうなるように努力しているものも中にはあるだろうが。その不十分さはあるとして、それとは別に、与党である自民党の政権の持っている平等や公正さのものさしはどうかというと、このものさしはかなり歪んだものだと見なせる。他人(報道機関)のことは言えないのである。

 報道の平等や公正さを、影響力の大きい報道機関に求めることで、与党である自民党の政権に忖度をさせてしまっている。これは、省庁の役人を(政権に)忖度させているのと同じものだろう。政権が持っている平等や公正のものさしはかなり歪んでいるために、逆に社会の中に不平等や不公正を生んでしまっている。もしほんとうに平等や公正さをとるのであれば、政権が持っているものさしをまず何より先に正さなければならない。政権による歪んだものさしが、不平等や不公正を生んでしまっていると一つには見られるが、政権は認知が歪んでもいるので、何が平等で何が公正かというのがおかしくなってしまい、それが正される見こみはまったく立っていない。