雑誌の記事では、総裁選の候補者を単純化してしまっているきらいがある(仕立て上げて基礎づけてしまっている)

 保守系の雑誌では、いまの首相をもち上げている。そして石破茂氏を叩いている。いまの首相のことは、気持ちが悪いくらいにもち上げていて、そのいっぽうで、自由民主党の中で首相と(総裁選で)総裁の座を争う石破氏のことは叩いているのである。

 右寄りの保守系の雑誌では、首相をもち上げて、石破氏を叩いているわけだが、これが意味することとして、誰が見ても分かりきったことではあるが、石破氏が党の中で排除されているのをあらわす。石破氏を排斥しているのである。

 石破氏が党の中や保守系の雑誌の記事で排除されるのはなぜかというと、これもまた分かりきったことではあるけど、石破氏がいまの首相の政権を批判するのをいとわないからである。石破氏はさしずめ、党の中で悪玉化されて、可傷性(ヴァルネラビリティ)をもち、贖罪の山羊(スケープゴート)になっていると見られる。

 石破氏は絶対的に正しいのだから、石破氏のことを全面的にもち上げて、首相のことは徹底して叩くようにせよ、とまではする必要はない。そこまでしなくてもよいが、せめて、石破氏のここは正しくて、ここはおかしいとか、いまの首相はここはよいが、ここは駄目だといったように、よいのと悪いのとを両方合わせて論じたらどうか。保守系の雑誌は、よいならよいとか悪いなら悪いと割り切ってしまうのではなく、よいのと悪いのを一人の人が合わせ持つようにしたら、記事の内容が偏りすぎないですむ。抑揚をもたせるようにする。

 石破氏は、いまの首相による政権のことを、頭からすべて駄目だと言っているわけではないだろう。全部が悪いわけではないが、悪いところは悪いのだとはっきりと言わないとならない。それを言うことについては(じっさいに言うのであれば)評価することができる。言わないで黙っているよりはよい。保守系の雑誌は、石破氏をいたずらに叩くのではなく、悪いところについては悪いのだと言うところを、石破氏から見習ったらどうだろうか。石破氏ですら生ぬるいくらいではあるが。