昼のテレビ番組で、与党の政治家による問題のある発言がとり上げられて、つっこんだ批判が行なわれたのはよいことである

 憎悪表現(ヘイト・スピーチ)よりも、表現の自由のほうが上である。表現の自由のほうが優先されるのだという。この意見で言われるように、表現の自由はたしかに大事だけど、絶対のものとは言えず、公共の福祉に反しない限りにおいてのものである。それに反していないかを見ないとならない。公共の福祉の公共は public であり、これは people(s) から来ていて、人々の福祉をさす。

 表現の自由が大事だということで、一般の人が色々な意見を言うのは基本としては有益である。それとは別に、政治家であれば、一般の人よりはもうちょっとしばりがあるものだろう。政治家は、憲法を守るというしばりがかかる。

 フジテレビのテレビ番組では、自由民主党の議員の発言がとり上げられた。この自民党の議員は、性の少数者は生産性がないと雑誌の記事で言っている。このことにたいして批判が投げかけられているが、テレビ番組の中でもこれはおかしいことだと出演者から言われていた。

 これだけにとどまらず、この自民党の議員は、ほかにも色々なことを言っている。ツイッターのツイートなどによってである。それらがテレビ番組の中でとり上げられて、出演者からまちがいを正すかたちで反論が投げかけられた。

 自民党の議員の発言がテレビ番組でとり上げられて、番組の出演者からそれなりにつっこんだ批判が行なわれるのは、かなり珍しいことだろう。これが意味することとして、一つには、白日の下でよくよく見てみれば色々とおかしいことを、自民党の議員はいくつも言っていた、ということがある。自民党の議員は、白日の下にさらされたら、他の人からおかしいと言われるのではないか、という意識がほとんどなかったことをあらわす。この意識は、いわば、井の中ではなく、大海にいる意識といったものである。大海にはさまざまな人によるさまざまな遠近法がある。

 表現の自由があることはたしかだが、一般の人は別にしても、政治家は憲法のしばりがかかっているのだから、公共の福祉に反しないように気をつけないとならない。それに気をつけるさいには、自分が言うことに確証(肯定)をもちすぎるのではなく、反証(否定)をとらないとならない。自分が言うことを肯定するのではなく、否定するのが正しいことが中にはあるから、肯定だけではなくて否定もくみ入れておく。それが、表現の自由をとるさいにいることだろう。

 表現の自由とは、憎悪表現(ヘイト・スピーチ)を含めて、あらゆる表現をすべて肯定します、ということだとは言えそうにない。政治家が、自分が言ったことを言いっぱなしでそれでよいのだということだとも言えそうにない。もしそうするのだとすれば、表現の自由は最高の価値をもつものだとなるが、唯一にして最高の価値をもつものではなく、ほかのものをより重んじる(または考慮に入れる)ことがいることはある。政治家が自分で言ったことについて、否定がないとならないし、やりとりがあることがいる。いざというさいには説明責任(アカウンタビリティ)が政治家には求められる。