子どもにこそ人権や権利がないとならない(そうでないと、問題がおきてしまうのがある)

 人格ができていないのが子どもである。子どものころから人権や権利を持ち出すのはよくない。雑誌の対談の中でこうした意見が言われている。学校の生徒に人権は無いとか、体罰よりも戦後教育を全否定せよ、といったことも言われている。

 人格ができていないのが子どもだということだが、人格というのはいつの時期にできあがるものなのだろうか。ここまでは人格ができていなくて、ここから先は人格ができている、とはっきりとさし示すのはできづらい。そうしたものではないだろう。

 人格が有るのと無いのとで分けるのは適したものとは言えそうにない。それを分けてしまうのは、人格を実体視してしまうことにつながりかねない。そうではなくて、みんなにあまねく人格があるとした方がふさわしい。建て前であるのはまぬがれないかもしれないが。

 子どもには人格ができていないために、子どものころから人権や権利を持ち出すのはまずいとするのには、うなずくことはできない。その逆に、子どものころから人権や権利を持ち出すようにするのがのぞましい。

 人格ができているかいないかというよりは、そうしたこととは関わりなく、生きて行くためにいる基本的必要(ベーシック・ニーズ)は誰であってもそれを満たすことができるのが理想だ。この必要を満たすのは、子どもであるとか大人であるとかというのは関わりがない。何かをなした(支払った)対価として与えられるものではなく、贈与によるものである。

 子どもとひとくくりに言っても、相対的に強い子どももいれば弱い子どももいる。ちがいがある。生き抜いて行きやすい子どもを主としてしまうと、生存者バイアスにおちいってしまう。それを避けるためには、子どもは可傷性(ヴァルネラビリティ)を持っていると見なすことがいる。可傷性をもつ子どもを守るために、人権や権利を十分にとることがいる。人権や権利は、子どもから大人がうばってはいけないものだろう。

 子どもを厳しくしつけて育てたほうがよいのだというのも言えるのがあり、それについての十分な反論にはなっていないのはあるかもしれない。子どもを厳しくしつけて育てるのがよいとするのは、まちがった意見だということはできそうにない。それはそれで(やりようによっては)うまくすれば一つの正しいあり方ではあるのだろう。父権主義(パターナリズム)になるのはいなめないが。

 一つ見すごしてはならないのは、大人とは分け隔てて、子どもだからというふうに見てしまうことで、それが差別になってしまうことがあるのがあげられる。子どもの生存は、大人と同じように、守られないとならない。子どもが健やかに育って行くのは社会にとっての益である。子どもの生存がおびやかされて、しいたげられて、傷ついてしまうのは、社会の中にあることだし、決してめずらしいことではない。学校ではいじめの被害は深刻だ。家庭では虐待が行なわれるのはまれなことではない。

 不幸にも子どもが命をうばわれたり絶ってしまったりしてしまった例があり、これはあってはならないことだけど、それがおきてしまったのがある。命は保たれるにしても、ずっと癒えない傷を負いつづけることもある。これは子どもに暴力が振るわれたことをあらわす。この負のできごとに子どもが見舞われたことは、子どものあり方を不当にねじ曲げてしまったことになる。こうした不当なことがおきてしまうのを減らして行き、無くして行くことがないとならない。負のできごとがおきてしまうことは、社会が不健全であることをあらわす。非人間的な社会であることをあらわしている。社会が抱える否定の契機が隠ぺいされて抹消されてしまっている。否定の契機は社会が抱える負の痕跡である。