少子化を何とかすることは大事だが、それとは別に、それより以上に、個人を尊重することは大事だろう(どちらかということではないだろうが)

 少子化を何とかするために、異性愛者にお金(税金)をかける。それ以外の性の少数者にはお金をかけない。自由民主党の議員は、性の少数者には生産性がないというふうに言っていて、少子化を何とかするためには、異性愛者にお金をかけるようにするべきだと言う。

 たしかに、少子化を何とかするためには、費用対効果のように、効果が見こめるところにお金をかけるのは一見すると理にかなっている。しかし、国にとって大事なことは、少子化を何とかすることだけに限られない。国にとってもっとも大事なことは何かというふうに見ると、それは憲法で保障されている人権が当てはまる。もっとも大事な価値として、個人の尊重がうたわれている。

 もっとも大事な価値は個人の尊重だとできるのだから、それよりも少子化を何とかすることのほうが優先されるとはできない。少子化を何とかすることも大事なことではあるが、それだからといって個人を尊重することをおろそかにすることはあってはならない。

 少子化を何とかしないとならないという問題意識(危機意識)はあってよいものである。それで、費用対効果により、費用としてお金をかけるのは、効果があがるところにするようにして、効果があがらないところにはお金をかけないようにするという見かたがとられる。しかしこの見かたにはワナがあるのがある。このワナにおちいるのに気をつけて、そこにおちいらないようにしなければならない。

 政治としてお金をかけるのは、税金が出どころであり、それは富の配分(給付)である。この富の配分というのは、それだけをとり出して見られるのではなく、承認というのと結びついている。あるものに富を配分しないというのは、承認しないということにつながりかねない。そこに危うさがある。つり合いのとれた富の配分をして、つり合いのとれた承認をするのがのぞましい。二つの両方をすることがいるのがある。

 どのようにしてつり合いをとるのかは難しいのはあるが、一つには、個人を尊重するという価値をとるようにして、それで配分と承認をどうするのかを見られればよい。社会の中で生きている一人ひとりの人間が、幸福を追求できるようにして、幸福になれる(近づいて行く)のをうながすために、配分と承認をどうするのかを決めるのがよいだろう。理想論にとどまるものではあるが。