報道機関は国民の敵だというトランプ大統領の発言はどうしようもないが、いっせいに報道機関が反論したのはたのもしい(日本ではこのたのもしさはのぞみづらい)

 私は報道機関(メディア)を国民の敵と呼ぶことにした。アメリカのドナルド・トランプ大統領はそう語っている。国民の敵という言い方は、ナチス・ドイツなどが使っていたものであるという。

 トランプ大統領の発言にたいして、アメリカの報道機関は社説を使っていっせいに反論を行ない、その数は全米の四〇〇紙以上にのぼっている。

 トランプ大統領は、報道機関のことを国民の敵というふうに言っているが、これはくくりが大きすぎるものである。ステレオタイプになっている。報道機関とひと口に言っても、さまざまなものがあるのだから、それらをすべてひとくくりにすることはできない。過度の性急な一般化をしていると言えるだろう。

 たしかに、報道機関が報じることの中には、トランプ大統領が言うように、国民の敵というのは言いすぎにしても、必ずしも正確ではない情報が流されるのはあるだろう。しかしそれは、報道機関だけに当てはまることではなく、広く情報について言えることである。報道を含めて、一般に情報には、送り手の意図が入りこむ。トランプ大統領の言うことにも、送り手の意図が入りこんでいるのはまちがいない。

 トランプ大統領は、アメリカの国民から選ばれているが、報道機関は国民から選ばれているわけではない。国民から選ばれているという点においてはトランプ大統領に重みがあるわけだが、そうだからといって、報道機関のことを国民の敵とするのは、ごう慢(ヒュブリス)におちいっている。大統領は国民から選ばれているが、国民とまったく同じなわけではない。たんなる代表にすぎないのだから、国民とのあいだにずれがおきるのは避けられない。報道機関はおきたできごとを媒介しているが、大統領は国民を媒介しているのである。

 なんでも、アメリカのトーマス・ジェファーソン大統領は、新聞なき政府よりは、政府なき新聞の方がよいとして、そちらを選ぶと言っているそうだ。アメリカは表現の自由を象徴しているというアメリカ人による意見もある。表現の自由により、さまざまな情報がやりとりされた方がよいのはたしかだ。憎悪表現(ヘイト・スピーチ)は他者危害の原理からして行なわれては駄目なものだから、それは例外の一つだろう。報道のあり方に問題があるのだとしたら、それを問題提起するのはあってよいだろうが、ひとくくりにして国民の敵と言うのは適したものではない。国民をひとくくりにいっしょくたにできないのと同じである。