権力の中心にいる首相を異化するために、反対する者をとり立ててみるのは有効なものなのがある

 わが党は国民政党である。一部の人たちのための政党ではない。特定の人々や特定の世代や特定の地域の人たちの政党ではない。自由民主党石破茂氏はそう言っている。

 石破氏の言っている、自民党が国民政党だというのはにわかには信じがたい。石破氏の言いたいこととしては、自民党が国民政党だというよりは、そうあるべきだという理想を言っているとすることができる。その理想と現実とは大きく隔たっているのだとせざるをえない。現実としては、ある特定の人々や世代や地域を政党は代表しているものだろう。

 いまの首相とそのとり巻きは、自民党の総裁選において、首相と対立する者は干すとか冷遇するとかとしておどしているとされる。そんなことは一切ないと首相は言っているが、(やるのだとしても)そうしますと言うわけがないのだから、いちおう形として否定しただけだという見かたが成り立つ。

 総裁選では、石破氏は出馬することで、首相と対立することになる。ふつうは、首相が中心(図)であり、石破氏は周縁(地)であるとできるが、これを反転させることができる。首相にとって石破氏は反対勢力(オポジション)ということになるが、反対勢力となるものこそが大事なのであり、与党の中での野党に当たるものだというのがある。

 与党である自民党は、野党をひどく軽んじていて、国会ではご飯論法や信号無視話法を多用している。それでうまくやっているつもりかもしれないが、数の力でものごとをおし進めてしまっているのはいなめない。数が多いから正しいとは限らないし、数が少ないからまちがっているとも言えない。なので、数が多い与党が正しいことをやっているとは言えず、数の少ない野党からの批判になるべく答えて行くことがいるが、それがおろそかになっている。

 総裁選において、首相は、対立する者を干すとか冷遇するというのは一切ないと言っている。そうであるのなら、総裁選において、石破氏とまともにぶつかり合い、じかに論じ合う機会を何回でももつべきではないだろうか。それをしないのであれば、対立する者を干したり冷遇したりしているのだということになる。政府の関係者は、形だけ総裁選をやったというようにすればよいと言っているようだが、形だけやったとするのではほとんど意味がない。中身がないとならないのがある。

 対立する者を干したり冷遇したりすることは一切ないと首相は言っているが、それだけでは不十分だ。これはあくまでも個人の意見ということになってしまうが、そこからもっとふみこんで、干したり冷遇したりしないのはもとより、対立する者を厚遇するべきである。石破氏が本気で首相と対立(対決)するというのなら、石破氏を厚遇して中心におくようにする。そうすれば、中心(図)と周縁(地)を反転させることができる。そんなことをする必要があるのか、という声があるかもしれないが、そうすることによって、本来あるべきあり方になるかもしれない。