気で動かすことにたいする批判としての理

 自由民主党安倍晋三首相は気によっている。おなじ自民党石破茂氏は理によっている。石破氏は総裁選に出馬するうえで、売りの言葉として正直と公正を言っている。これはいまの首相に決定的に欠けてしまっているのが理であることをうら返しで示しているものだろう。ほんらいなければならないものである理が、いまの首相にはいちじるしく欠けてしまっているのである。

 このさいの気と理とは、うまく定義できないために、説得力はないかもしれないが、実質(熱)と形式(冷)の視点のちがいといったものである。実質をとってしまうと、形式がないがしろになり、メタ(上位)の視点に立つことができなくなる。中立ではなくなる。実質をとるのは、ある特定のものに大きく肩入れするということであり、純粋な大義(正義)でつっ走る。それを(かろうじてではあっても)避けるのが形式による中立である。

 いまの首相は気によるとしても、別の見かたからすれば、いまの首相にも理はあるという見かたは成り立つ。だから、いまの首相は気によっているというのは、一つの仮説にすぎず、そこまで説得力があるものとは言えそうにない。一つの仮説にすぎず、個人の意見ということになってしまうものだが、メタによる形式と中立ということでいうと、いまの首相にはそれがいちじるしく欠けていて、石破氏はそれがとれているところがあるので、その点において理がある。相対的な話ではあるが。