猫(現職の首相)の首に鈴をつける人がたった一人しか出てこない、という見かたが一つには成り立つ

 現職の首相が現にいるのにもかかわらず総裁選に候補者として出る。それは現職の首相に辞めろと迫るのと同じだ。自由民主党安倍晋三首相はそう言う。

 産経新聞の記事では、首相の気持ちを忖度している。首相にとってみると、選挙と経済と外交で成果をあげている。首相を代えることはまったくいらないことであるとしている。

 たしかに、現職の首相は現にいるわけだが、それだからといって、総裁選に他の候補者が出るのはいけないのだろうか。それをいけないと首相はしているようだが、これは首相が権力を私物化していることを示してはいないだろうか。権力を私物化しているというのは、もしそうでないのだとすれば、総裁選に他の候補者が出るのをよしとするはずだからである。

 他の候補者が出ないのは、首相にとってはよいことかもしれないが、自民党にとっては必ずしもよいこととは見なしづらい。もし首相が自己中心にではなく党のことをおもんばかっているのであれば、自分が権力の地位に何が何でもいなくてもかならずしもかまわないものだろう。自分が権力の地位から引き下がることになるとしても、もっとほかの優れた人が出てくればよいのだし、それによって党や日本の社会がよくなるのであればそれに越したことはない。

 選挙と経済と外交で成果をあげているとはいえ、それらですべて一〇〇点の結果を出しているのだとは言えない。もしそれらですべて一〇〇点の結果を出しているのであれば、まったくまちがいをおかさない機械のような人間だろう。そんな人間がいるはずがない。そうであるにもかかわらず、首相は無びゅう性のあり方をとっているのが見うけられる。無びゅうではなく可びゅうであるとしなければならない。可びゅうというよりもむしろ誤びゅうだらけであるかもしれないが。

 現職の首相をかりに一つの命題(テーゼ)であるとできるとすると、その命題があることにより、潜在として反命題(アンチ・テーゼ)が生み出される。その潜在している反命題が表に出てくることで、次の首相のにない手があらわれることになる。次の首相のにない手があらわれるのをうながすのがのぞましい。いずれにせよ、潜在としては反命題は生み出されているからである。

 潜在している反命題を見たくはないものとして見ないようにすることはできるが、あることはあるのであり、単眼の一元論はとれるものではない。複眼の二元論で見るのがふさわしい。現職の首相が一つの命題であるとすると、それが自分で生み出したものが、潜在の反命題なのである。光と影のようなものだろう。光が生み出したものが影であり闇である。