律儀でまじめだというふうに国民を象徴化(一般化)するのは現実を見ることにはなりそうにない

 サマータイムを導入する。それを導入するさいに、コンピュータなどの時間設定を変更することがいり、これが膨大な作業となるため、やっかいだとされる。導入は無理だとする声もあがっている。

 自由民主党の議員は、導入に賛成だとして、律儀でまじめな国民ならば、十分に乗り切れるはずだとしている。自民党の議員はこう言っているが、これをそのままうのみにすることはできづらい。

 かりに国民が律儀でまじめなのだとしても、コンピュータなどの時間設定の変更を乗り切れないことはあるものだろう。律儀でまじめな国民にもお手上げなものである。

 国民とひと口に言っても、一億人以上いるのだから、そのすべてが律儀でまじめなわけではないだろう。それを一緒くたにしてしまうのは、ステレオタイプの見かたである。自民党の議員が国民のことをそう思いこんでいるのだとしても、実在の国民にはさまざまな人がいる。

 国民が律儀でまじめであればのぞましいことであるとは必ずしも見なすことはできそうにない。ものごとにとり組むときには、外からのまたは内からの動機づけがはたらく。どういう動機づけがはたらくかによって変わってくるのがある。

 みんながみんないつもいつも律儀でまじめであればよいというものではないし、あることに協力する人もいれば協力しない人もいるとなることが少なくない。たんに律儀でまじめだと言うだけでは、どういう方向に進むかはわからないのだから、まちがった方向に律儀でまじめに進んでいってもしようがない。

 たしかに、色々なものごとに律儀でまじめにとり組むことはよいことではあるかもしれない。しかし、かなり大局の見かたにはなってしまうが、地球を含む太陽系はいつかは消滅してしまうときが来る。何もかもが消えて無くなってしまうのである。太陽系の中のあらゆるものに死が訪れる。それを念頭に置くとすると、律儀で真面目であることに意味はあるのだろうか。それがあってもよいだろうが、それよりも、ほどほどでまっとう(ディーセント)なことの方により重きを置いてみたい。