いつまでも議論だけをつづけるわけには行かないというのを一つの議論(の根拠)として見ると、そのまま受け入れることはできないものであり、批判をすることがいる

 いつまでも議論だけをつづけるわけには行かない。自由民主党としての憲法の改正案を次の国会に提出できるように、とりまとめを加速するべきだ。自民党安倍晋三首相はこのように言っているという。

 たしかに、とりあつかうものによっては、いつまでも議論だけをつづけるわけには行かないことはあるだろう。とりあえずやってみることが有効なものはある。しかし、憲法についてはそうは言えないものだろう。論じ合わなければいけない論点は山ほどあるはずだ。

 いつまでも議論だけをつづけるわけには行かない、ということを首相は根拠にしているわけだが、これを受け入れるわけには行かない。議論は時間を量としてかければよいというものではなく、質を見なければならない。質がまるで駄目なのであれば、量があったところで意味はないものだろう。

 上下関係により閉じた中で議論を行なうのでは、上から下に意見が押しつけられることになる。上の者が言ったことを下の者はそのまま受け入れるというのでは閉じたあり方だ。もし上の者がまちがった意見を言っていても、下の者はそのまま受け入れることになる。そうならないようにするには、上下関係をとらないようにして開かれた中で議論をすることがいる。

 これまでをふり返って、どのようなふうに議論が行なわれたのかを見なければならないのがある。そのふり返りがなく、ただ前に向かってつき進むというのでは、まちがった判断につながりかねない。重要なことの意思決定をするさいに、確証(肯定)だけではなく反証(否定)をするようにしないと、まちがった判断を防ぎづらい。

 これまでにどういう議論が行なわれてきたのかをふり返ることがないと、議論をやってきたといってもあまり意味はないものだろう。憲法についてはさまざまな論点があるのであり、それらの一つひとつでどのような議論が行なわれてきたのかを見ることがいる。はじめの出発点において認知の歪みがはたらいていないかを見ることがいる。憲法の改正ありきというのは、出発点における一つの認知の歪みとなる。隠れた前提条件をもっていることを示す。話し合いでは、なるべく細かく話を進めるようにしないと、結論の正しさを損ないやすい。大ざっぱな話の進め方では、結論は誤っていることがある。

 憲法の改正のような大きな論点の話では、改正なら改正だけが正解というふうにはなりづらい。正解がいくつもあって決めがたいのがふつうである。絶対の正解はない。それを強引に一つの方向へもって行こうとするのは乱暴だ。権力者は憲法を守る義務はあっても、改正する義務はないのがある。改正する権利はいちおうあるが、可能ではあっても必然ではない。やらなければならないということではなく、やってもやらなくてもよいものだから、やらなくてもよいというのも十分に見ておかないとならない。

 憲法の改正が正解だとして首相や自民党はつき進もうとしているのだろうが、何ごとにも作用と反作用といったものがおきることが見こせる。憲法の改正をすることで、どういう作用がおきて、どういう反作用がおきるのかを見ることがいるだろう。よい面があれば悪い面もあるのであり、よい面だけを見るのであれば片面しか見ていることにはならない。

 片面だけではなく両面を見ることがいるのであり、それをするためには、たんに自分にとっての味方か敵かで分けるのでは駄目である。味方でもあり敵でもあるとか、味方でも敵でもないといったところも十分にすくいとらないとならない。英語では MECE(ミッシー)と言われるものがあり、漏れもなくだぶりもないというのをとるものであるとされる。MECE によって見落としを防ぐ。漏れがないかやだぶりがないかをきちんと見るのでないと、ものごとの進め方が雑である。あとになって漏れがあったのがわかったりだぶりがあったのがわかったりするのでは、国にとってのいちじるしい損失につながる。

 国会では首相や大臣などの権力者たちは、ご飯論法や信号無視話法をしばしば行ない、議論をほうり出している。これで憲法については議論ができるというのはおかしい。議論ができていないにちがいないという推測が成り立つ。この推測は当てずっぽうとは言えず、それなりの確からしさがあるはずだ。議論はできていないにちがいないのはいなめないが、議論をするというだけではなく、討論(ディベート)なんかもやったらどうだろう。公開で議論や討論をどんどんやるようにするのは国民にとってとくに損になるものとは言えそうにない。問題点が浮きぼりになる効用が見こめる。