国民にではなく国家に主権があるとしてしまうと反動の見かたになる

 国語として、主権は国民にではなく国家にある。国家に主権があるのであり、その国家主権は国民をないがしろにすることはない。群馬県の伊勢崎市の市議はツイッターのツイートでそうつぶやいている。それについての反論や批判が投げかけられている。

 日本は民主主義の国なのであり、民主主義は民が主となるものであって、国が主となるものではないだろう。民が主となり有権者になることで民主主義は成り立つ。民ではなくて国家が主権を持つとしてしまうと、民主主義を放棄してしまうことになりかねない。

 主権は国家にあるのか、それとも国民にあるのかというのは、憲法を見ることがいる。憲法の定めでは、三大主義として、国民主権主義があり、国民に主権があるとされている。明治時代の大日本帝国憲法では、国民にではなく天皇(国家)に主権があるとされていた。

 伊勢崎市の市議は、国家主権は国民をないがしろにすることはないとしているが、国民をないがしろにすることはざらにあるだろう。国民に主権があり、国民の意思を代表する国の政治家がものごとを決めるが、国の政治家は国民の意思を代理しているのにすぎない。すべての国民の意思を反映することはできず、寛容性がないと少数派の国民の意思はひどくないがしろになる。まったく矛盾の無い集団のあり方はありえるものではない。

 国民の代表である国の政治家は、国家におけるものごとを決めることをになうが、それには権威がある。国民や報道機関は、権威をもつ国の政治家の行ないをしっかりと監視して、批判を積極的に行なうことがあるのでないと、やりたい放題になってしまう。やりたい放題になってしまうと、国民にではなく国家(国の政治家)に主権をにぎられてしまい、国家の公が肥大する。国家の公の権威にすがる権威主義専制主義のあり方になる。これは形としては民主主義であっても、実質としては民主主義ではない。肥大した国家の公によって国民の個人の私は押しつぶされることになる。

 戦前や戦時中の日本は、国民にではなく国家(天皇)に主権があり、国家の権力が暴発して破滅にまでつっ走っていった。人間というのは、自分(たち)が死ぬぞというところまで行かないと理性による反省はできづらい、と西洋の思想家のトマス・ホッブズは言っているという。ふだんは人間は虚栄心にかられているのだ。日本の作家の星新一氏は、過去にペーソスを、未来にユーモアをもつことがよいとしている。過去のペーソスとして、歴史における大失敗をしっかりと見て、そこでとられた理性による反省を大切にする。のど元過ぎれば熱さを忘れるとはならないようにしたい。