反日と名詞(せめて何々的として形容詞にするべきである)

 反日であるとされていた県知事をよしとした芸能人が、反日であるとレッテルを貼られている。この芸能人は反日であると一部から言われてしまっているようだ。この反日というのは、名詞で言うことからあたかもそれがあるかのようになるが、じっさいには無いものだろう。

 反日というのは、その反対の反日でないものがなければ成り立たないものであり、実在のものではなく名目のものにすぎない。関係によって成り立っているものである。反日でもなければ、反日でないのでもないといったものもあるはずであり、色々なあり方が成り立つ。一か〇かではなく、ていどの差はあれみんな反日だというのもできる。ていどの差はあれみんな反日ではないというのもできる。かりに反日があると認めるにしてもの話である。

 場合分けができるとすると、反日であるものに、正しい(よい)ものとまちがっている(悪い)ものがあるとできる。反日ではないものに、正しいものとまちがっているものがあるとできる。反日だからまちがっているとは言えないし、反日ではないから正しいとも言えない。反日だから悪いとは言えないし、反日ではないからよいとも言えない。

 反日というのはスタップ細胞のようなものだろう。スタップ細胞では、研究者によってそれがあるとされていたのがあるが、改めて見たところ、あるとは言えないのがわかったものである。スタップ細胞をあるとしてしまっていたのは、それを名詞でとらえていたことが要因の一つとしてあげられる。名詞でスタップ細胞と言ってしまうと、本来はそれが無いのだとしても、それがあるかのようなとらえ方を引きおこしやすい。

 スタップ細胞があるとは言えないのと同じように、反日というのも無いものである。名詞で言ってしまうから、あたかもあるかのように用いることはできるが、絶対にそうであるかのようにレッテルを貼るのはいましめられなければならない。

 改めて見れば、反日というのがかりにあるのだとしても、それについての確かな見かたはとりづらい。誰かが誰かを反日であると言ったとしても、そう言われているものはかえって反日ではないというとらえ方が成り立つ。誰かが反日であると言われていないのだとしても、そう言われていないものはかえって反日であるというとらえ方も成り立つ。反日というのは、くるくると回る回転扉のようにできるのであり、無限後退させることができる。

 めくり返らせられるとすれば、反日反日である(反日という語こそが反日である)とできるし、宙づりにすることもできる。もっとも反日から遠い(もっとも反日ではない)ものこそが、もっとも反日であるというふうに、逆転させて見ると正しくなることがあるから、そうして見ることも必要だ。反日というのは無いのであり、観念による思いこみにすぎず、それを用いることで社会的偏見をうながしてしまう。