核兵器を持っている国(強国)が、自分から核兵器をなくして行くことがいるのであり、双方の協力がいるというのはちがうのではないか

 この長崎が、核兵器の被害に苦しむ地球最後の場所となるよう決意しましょう。国連事務総長アントニオ・グテーレス氏は日本の長崎市でそう言ったという。いっぽう日本の安倍晋三首相 は、核兵器国と非核兵器国、双方の協力を得ることが必要です、と言ったという。

 グテーレス氏と首相の言うことは、どちらか一方だけが正しく、もう一方はまちがっている、という白か黒かのものとは言えそうにない。どちらも言っていることは正しいものだろう。そのうえで、首相の言っていることを見ると、現実主義によるものであるというのはあるが、当たり前のことであるし、だからどうなのだ(so what?)と言いたい気がしてくる。

 核兵器保有国と保有していない国との双方の協力を得ることが必要だと言うだけでは、現実主義を気どっているだけだろう。核兵器保有することが正しいとは言いがたく、どちらかということであれば、核兵器保有しないほうが正しい。その逆に、核兵器保有することがよいことであり正しいことであるのだとすれば、どんどん核兵器を持つのがのぞましいことになるが、これはおかしいものである。

 核保有の是と非については、観点のちがいにすぎないのであり、どちらも正しいということもできるのはあるが、その観点については批判をしたいのがある。たしかに観点のちがいにすぎないとして、どちらもそれなりに正しいということは言えるのはあるが、そうしてしまうと判断を投げ出すことになりかねないし、いたずらに現状(現実)に盲目に追従することになりかねない。現実がかくのごとくになっているというのがあるとしても、その現実から価値をそのまま導き出すことはできづらい。

 核兵器保有しないあり方のほうが正しいのだとできるとすると、核兵器保有することはまちがっているのだと言うことがいるのがある。声をあげて意思を示すことがいる。双方の協力を得るのがいるというよりは、核兵器保有することのまちがいを言うことがいるだろう。

 現実には、アメリカの核の傘に守られているのがあり、欺まんになってしまうのはあるが、その現実の文脈をカッコに入れられるとすれば、脱文脈化した中での話(理想論)もできるものだろう。