人間中心主義と生産性

 性の少数派について、生産性がないというふうに言う。自由民主党の議員はそう言ったのがあるが、生産性があるのは人間というよりも、太陽だと言うことができる。太陽に生産性があるのであり、人間はその恩恵にあずかっているのにすぎない。

 太陽の生産性によってできた石油などの化石燃料を、人間はばんばん使っている。いずれは使い果たしてしまうものだが、なるべく使うのを少なくしようというよりは、浪費してしまっている。石油などの化石燃料を自分たちの手でつくることはできないのだから、その点で言って人間に生産性はないだろう。

 もし石油などの化石燃料がないのであれば、いまの社会のあり方とはちがったものになっているだろう。化石燃料がまったくない(なくなる)という想定は現実ばなれしたものかと言えば、必ずしもそうとは言えそうにない。一つの想定としてはとれるものだから、それをくみ入れれば、いまの社会のあり方においてある人に生産性があるとかないとか言うのは、そこまで確かなものとは言いがたいのがある。

 いまの社会のあり方において、ある人に生産性があるとかないとか言うよりは、社会の全体として構造の問題があると言えるだろう。その構造の問題を見るとすると、人口が減る少子化がおきているのは、過少化がおきていることをあらわす。その過少化がおきている中で、ある人に生産性があるとかないとかと言っても、構造の問題を見ていることにはなりづらい。

 自民党の議員は生産性というのを言っているが、それを持ち出すことで、いまの社会が抱えているさまざまな負の問題が隠ぺいされてしまうおそれがある。さまざまな負の問題があり、それによって人口が減るなどの過少化がおきているのである。その負の問題を見て行くにさいして、まずは、人間には生産性はとくに無いのであり、その大もとは太陽である、とするのはどうだろうか。太陽や自然の環境などを重んじるようにして、それらが生産性をもっているとして見ることができる。