何々だから何々だ、という形を絶対化するのではなく、相対化することができる(順接だけではなく逆接でも見られる)

 さまざまな論理がある。何々だから何々だ、と言えるのが色々とある。だからの語でつなげられるものである論理だ。この論理とは主張といった意味あいである。ジャーナリストの笠信太郎氏は、さまざまな主張が世の中で広く投げかけられて、それらが食いちがうことがあるのを言っている。

 さまざまな主張が食いちがうさいに、形としては、何々だから何々だ、が色々ととれることになる。ここで見られることの一つに、順接と逆接と、確証(肯定)と反証(否定)が関わってくるのがあげられる。

 何々だから何々だと言えるのだとしても、そこには順接と逆接や確証と反証が関わってくるのである。そのようにして見ることができるものだ。必ずしも順接(の接続詞)で見られるとは限らない。順接であれば、何々だから何々だとそのまま言えるけど、そうではなくて逆接(の接続詞)としても見られる。逆接であれば、順接のように、だからとはならず、しかし(だけど)となる。表だけではなくて裏もあるといったものである。表だけではなく裏もあるのであれば、できるだけ裏も見なければならない。

 順接と確証をとるだけではなく、反証をとることもできる。これは逆接にもまた言えることである。それらを色々ととれるのがあり、効果としては、期待と裏切りのようなものがはたらく。必ずしも期待どおりにことが運ぶとは限らないので、効果として裏切りがおきることがある。思想家のジョルジュ・バタイユは、期待と裏切りを、有用性と至高性として説明しているということだ。

 順接と逆接の二つがあるのだとしても、順接(と確証)をついとりたくなるのが人間のさがである。効率や節約をとることによる。何々のときには何々をするという図式を、人間は行動をするさいにとることで、効率をよくして節約をするのに大いに役立つ。それをとることで、てこの原理がはたらき、利益もあるが(いざというときの)危険もあるといったことになる。

 利益が高ければそれに相関して危険もまた高くなる。そうなるのは、一神教のようにして、一つのもの(の一つの面)をよしとするときにおきやすい。一つのものの一つの面をよしとすると、他の面をとりこぼしてしまう。一つのものの一つの面だけを見ていると、それがプラスであるとしていたのが、ほんとうはマイナスだったということになりかねない。プラスのものがあるとしても、できるだけマイナスを読みこむようにして、せめてプラスとマイナスが半分ずつというくらいにしておくのが安全だ。一面性ではなく、二面性としてとらえるものである。

 社会学では、社会の中にある要素として、順機能と逆機能があるという。二つ目の逆機能というのはそのときの社会にとってのぞましくないものが当てはまるようだ。この逆機能を外科手術のように切りとってしまうのではなく、関係によるものとしてとらえて、うまく順機能に転化することもできなくはないという。その逆に、順機能が逆機能に転化してしまうこともまたあるだろう。これは、一つのことについて順接と逆接の両方があることを示しているものだと見ることができる。