何にでも利点と欠点があるのであり、憲法教という新興宗教に毒されているとして、丸ごとまちがっているかのように言うのはおかしい

 憲法教という新興宗教に毒されている。自由民主党の元防衛相は、ツイッターのツイートでそうつぶやいたという。憲法教という新興宗教に毒されている人がいる中で、そうではない人もいるとして、そうではない人をほめているようである。このツイートは一部からひんしゅくを買ったせいか削除されている。

 自民党の元防衛相は、ツイートにおいて、憲法教という新興宗教というふうに言っているが、これは形式と実質をごちゃ混ぜにしてしまっているものだろう。憲法というのは一つの形式でもあるから、それをまるごと否定するのであれば、荒唐無稽な話である。形式として憲法はなくてよいのではなく必要なものだろう。国よりも先に憲法があると見られる。

 いまの憲法のことに限定して実質として憲法教というのであるとしても、それもまたおかしいものである。たとえ憲法を守るのだとしても、憲法の中に改正の定めがあるのだから、憲法を守ることで改正ができなくなるわけではない。

 何が何でも改正するのは駄目だとするのであれば、元防衛相が言うように、憲法教という新興宗教と言えるところはないではない。しかしそういう人がいてもよいし、またそういう人ばかりではないのだから、決めつけるのはよいことではないのがある。ひとくくりにするべきではない。

 憲法の趣旨としては、国民の自由をとるようにするものであって、権力をもつ政治家が自由になるためのものとは言えないものである。政治家である元防衛相は、自分たちが自由になりたいがために、権力をもつ政治家をしばるものである憲法を敵視していることがうかがえる。政治家である元防衛相は、自分たちのことではなく、国民の自由を第一に重んじるべきである。権力をもつ政治家をしばるものである憲法を守る義務を引きうけるべきだろう。

 憲法教という新興宗教と元防衛相はツイートで言っていたが、これには言いがかりが含まれている。憲法は法律よりも上のものであり、そうであるために変えづらくなっていると言われる。簡単に変えられないようになっているのには意味があるのであり、あたかもそれを宗教であるかのように言うのはまちがいなく正しい見かたとは言えそうにない。法律の上にあり、簡単には変えづらくなっているものを、うまく生かすのではなく、元防衛相を含めていまの自民党は、何が何でも変えようとしているが、それが行きすぎるのはものごとの優先順位を大きくはきちがえることになる。