自由民主党の議員は、雑誌の記事の中で、ある人がこれ(このまま)でよいのだとするのではいけないというふうにしているが、なぜこれでよいとするのを否定するのだろうか(基本としてはこのままでよいはずである)

 同性愛のままでよいのだという不幸な人を増やすことになる。自由民主党の議員は雑誌の記事の中でそう記しているという。同性愛の人は不幸であると受けとれるものである。これは、かつての東京都知事が言っていたことをほうふつとさせるようなものである。

 新聞社のコラムでは、同性愛の人が不幸であるとすれば、それはとり巻いている社会が悪いのだとしている。原因は社会にあるのだということである。社会にあるとともに、与党の政治家は権力をつかさどっているのだから、そこにもまた原因を求められるだろう。

 ある人が幸福か不幸かはさまざまであるだろうし、色々な要因によっている。それを一側面をとることでいっしょくたにひとくくりにするのは危ないものである。社会的偏見をうながしかねないものであり、まちがった一般化をしてしまっている。

 人は幸福追求の権利をもつと憲法ではうたわれている。自民党の議員は、政治家であるのなら、それを尊重するようにしないとならない。ある人を不幸であるとして決めつけるのはもってのほかのことであり、もし不幸であるとするのなら社会の問題であるのだから、解決されなければならないものだろう。

 自民党の議員は、ほかにも、なぜ二つの性では駄目なのか、というふうに記しているという。これにかんしては、二つの性だけでは概念の引き出しが少なすぎて、足りないのである。二つの性によるだけではなく、もっと概念の引き出しを増やさないと、現実のありようをとらえることはできづらい。概念の引き出しが少ないのは、認識が貧しいことである。相対的なものではあるが。

 自民党の議員は、二つの性というのを普通のことであるとして、そうではないのを普通ではないこととしてしまっている。普通であるというのは、自然であることとして、神話作用がはたらいているものだろう。普通であるとか標準であるというのは、えてして上げ底になっていて、じっさいよりも価値がかさ増しされている。それを差し引かないとならない。普通や標準というのは、絶対の価値をもつとまでは言えないものである。または一元論としてこういうふうにも言えるだろう。普通であるのと、とても普通であるのがあるとできる。これは、精神障害者の施設であるべてるの家で用いられているものであるという。