差別している人を差別するのも差別だというと、対人論法のようになりかねず、論点がずれてしまいかねないのがある(最初の差別が論点としてある)

 差別している人を差別してしまっている。差別は怖い。お笑い芸人の人は、ツイッターのツイートでこうつぶやいていた。差別している人を差別してしまうのもまた差別なのであり、差別は怖いものだということだろう。

 このつぶやきの前提条件を見てみると、差別はいけないことだというのをとっている。差別はいけないことなので、(差別をしている人を)差別してしまっているのに気づいて、それを怖いというふうに言っている。

 前提条件として差別をいけないことだとするのであれば、差別している人の差別をそのままにするのはのぞましいことではない。差別している人を差別するのもまた差別ではあるけど、これを言うと切りが無くなるのがあるので、共通しているものである差別ということを見て行くことがいる。それがいけないことだというのに立ち戻らないとならない。

 差別している人というよりは、差別という行為を見るようにして、人と行為を分けて見るのはどうだろうか。罪を憎んで人を憎まずというふうにして、差別をしている人というよりは、その行為を憎むようにする。それで差別の問題を見るようにすることができればよい。