党の中に色々な人たちがいて、なおかつ開かれているのなら、重大な問題だとして問題視をする人がいてもよいはずであり、問題視をする人としない人とのあいだで議論をするのがあってよいはずである

 人それぞれで色々な政治の立ち場がある。色々な考え方や人生観がある。自由民主党の幹事長はこのように述べている。一部から叩かれている自民党に属する議員の主張を問題視しないつもりであるという。

 幹事長はさらに、自民党は右から左までさまざまな議員が集まっていて、その中での主張だと受けとめているとしている。また、社会の中でつらい思いや不利益をこうむる人が出ないように、多様性のある社会にすることがいるとしている。そのような社会にするために努めて行くという。

 つらい思いや不利益をこうむる人が出ないように、多様性のある社会にするように努めるのであれば、叩かれている自民党に属する議員の主張を問題視しないのはちょっとおかしい。問題視するべきなのではないか。

 幹事長は、多様性のある社会にするのが大事だとして、そうなるように努めて行くとしているが、その前にまず自民党の中で多様性があるようにするべきだろう。いまの自民党に多様性があるのかと言えば、きわめて乏しいあり方になっているのだと見うけられる。首相のまわりにはイエスマン太鼓持ちばかりがいるようになっていて、それが党の全体のあり方になってしまっているのが見てとれる。

 自民党の中の多様性はおそらくきわめて乏しいものだろう。それがあらわれているのがある。叩かれている自民党の議員の主張が、もし党や首相にとって都合の悪いものなのであれば、すぐに押さえつけられるはずだが、そうはなっていない。これは自民党の中で右から左までさまざまな議員がいるからではなく、自民党の支持団体(日◯会議など)にとってさして都合の悪い主張ではないから、たんに黙認されているだけである。

 叩かれている自民党の議員は、性の少数派である LGBT には生産性がないとはっきりと言っているが、すべての自民党に属する議員の人たちが同じ見かたをしているのだとは言えそうにない。そこは、幹事長が言うように、全員が完全にまったく同じ見かたをしているのではないということでは、色々な見かたをもっている人がいるのは認められる。

 一般論として、かりに自民党の中に色々な政治の立ち場や人生観や考え方をもっている人たちがいるのだとしても、それでよしというふうには見なしづらい。それをよしとしてしまうのであれば、極端に言えば、ナチス・ドイツのようなあり方をよしとすることにつながる危うさがある。色々な見かたをする色々な人たちがいるというのは悪いことではないが、それだけでは駄目なのであり、できれば批判としてやりとりをすることがいる。それをしようとしないのであれば、社会関係(パブリック・リレーションズ)をとらないことになる。いまのところ、自民党のあり方は、それをろくにとっていないのがあるので、改められたほうがのぞましい。