生産性が低い人のほうがむしろえらい(階層秩序による二項対立を反転して見ることができるとすればのものである)

 生産性のあるものと無いものを同列にあつかうには無理がある。自由民主党の議員は、ブログの記事でそう言っている。これを根拠として、性の少数派である LGBT への支援は必要ないのだとしている。この根拠は受け入れられるのかどうかを改めて見ることができる。

 生産性があるか無いかというのは、関係によって決まるものであり、絶対的なものではないというふうに見られる。相対的なものにとどまっている。あるものさしから見て、生産性があるか無いかというふうに見られるのはあるかもしれないが、そのものさしが絶対に正しいというわけではない。生産性があるか無いかというのは、二つに分けているものであり、大ざっぱなものである。揺らいでいるものでもある。

 人間に生産性があるものと無いものとがあるというのは、一つの大きな物語だということができる。ある人間が、生産性をもっていて、何かを生産したのだというのは、一つの大きな物語にすぎない。この大きな物語をとらないようにすることができる。西洋の思想では作者の死というのが言われているのがあり、作者と作品は切り離して見ることができる。作者の死があるので、作者はいないものだとする見かたが成り立つ。たんに作品(生産物)があるだけである。

 生産性があるか無いかではなく、排斥してしまっているかどうかを見ることが重要だとする見かたが成り立つ。何かを排斥してしまっているのだとすると、それのうえに成り立つ生産性に大きな意味はあるのだろうか。労働でいえば、低賃金の労働者から搾取して成り立つ経済の豊かさに何の意味があるのだろう。

 生産性があるか無いかではかるのではないようにしたい。たまたま運があって生産性が高い人だけではなく、たまたま不運に見まわれて生産性が低い人をどれだけ排斥しないですむかというのができればよい。排斥しないようにするのがよいのがあり、そうするためには、固定化して見ないようにすることができればよい。

 たまたま運があって生産性が高い人がいるとしても、それはその人の独力の力ではなく、さまざまな人の力があってはじめて成り立っているものだろう。さまざまな人の力がなければ、生産性が高い人というのは成り立たないはずだ。生産性が高い人は、それを自分の手がらにするのではなく、ほかのさまざまな人たちの助力(または存在)のおかげだとするのがよいのではないか。

 国の経済でいうと、拡大再生産は生産性が高く、単純再生産はそうではないが、どちらがえらいかというと、単純再生産のほうだろう。拡大再生産では、いらないものをたくさんつくってしまい、ごみが大量に生み出される。つくりすぎたものを捨てるようなばち当たりなことをしていて、無駄を生んでいる。化石燃料のほかに、原子力発電を用いることで、深刻な危険をまねきかねないことをしている。こうしたことを避けやすいのが単純再生産である。拡大再生産のように、自然の環境を壊してしまうのではなく、できるだけ自然の循環にさからわないような人間の社会のあり方をとれたほうがのぞましい。理想論であることはたしかだけど。