児童の生命を保つためには、色々な工夫や改善をすることができる(できた)のはある(環境を整えて、細かい規則をゆるめることができるのがある)

 熱中症で小学校の一年生の男子児童が亡くなったという。この児童を含む同じ教室の小学一年生たちは、その日の午前一〇時ごろに一キロメートル先にある公園まで行き、そこで三〇分ほどすごし、学校へ戻った。教室で男子児童は熱中症で具合が悪くなり、意識がなくなり、搬送されたが助からなかったそうだ。

 午前一〇時というと、一日のうちでいちばん暑い時間帯ではないものの、夏のいまの時期だと、早朝の段階でもすでにかなり気温は高く暑い。かなり早い朝の時間帯であっても、気温が高い夏の時期に戸外ですごしていたらけっこうきついものである。夏の時期の直射日光を体に浴びると、体に熱がたまってしまうようになる。

 学校側は、あとでふり返ってみて、学校の外の公園に児童を行かせるべきではなかったとして、判断が誤っていたと省みているようだ。かりに児童を学校の外の公園に行かせるのであれば、熱射病におちいることを見こして、それを予防したり手当てしたりするための準備をしっかりと用意しておくことがいるだろう。用意がしっかりととられていないのであれば、不備があったことになる。どこにも出かけないで学校の敷地の中にいるのであっても、熱中症になる危険はあるのだから、それへの備えは十分であったほうがよい。

 熱中症で男子児童が亡くなった事件で、学校側にとんでもない落ち度があったのかどうかはわからないが、学校での教育のやり方にさまざまなまちがいがあることが災いしたのだということができそうだ。その一つには、画一化や平準化があげられる。児童の一人ひとりのもっている体力はちがうのだから、そのちがいを認めるようにして、ちがいに応じた教育ができればのぞましい。標準を前提にしないようにする。

 学校の教室という場が先だってしまっていて、児童はそれにつき従わされているようになっているのがある。教育では、そうしたことはある程度は仕方がないものではあるかもしれないが、集団主義のようになるのが行きすぎるのはのぞましいことではない。学校の教室の場が先だつのではなく、児童の一人ひとりが先だつようにできればよい。児童の一人ひとりが目的なのであり、何かの手段であるのではないのがある。学校の教室の場で、いついかなるさいにも正しい教育が行なわれているとは言えず、まちがっていることも少なからずあるだろう。学校というのは国家のイデオロギー装置の一つである。

 児童には教育を受ける義務と権利があるのとは別に、学校側は、児童の生命を保つようにして、それを損なわないようにしなければならないのがある。児童の生命を損なってしまうようであれば、不正義をしてしまうことになる。わざとではないだろうから、学校側を強く責めるのは正しくはないかもしれないが、児童にたいして不正義になるようなことをしてしまったのはあるだろう。これは学校のみならず、日本の社会の全体に言えることだというふうに見られる。色々なところで、色々なものが、まとも(ディセント)ではなくなってしまっている。